「…馬鹿な男だな…お前は」 嘲笑うような口調だったが、彼女の声は震えていた。 「…構わなかったんです…」 血液の滴る右手を強く握り締め、若い医師は呟いた。「それに、コレ位の事をしないと、俺の気が済まない」 「…馬鹿な男だ…」 もう一度、彼女は告げた。 だがその呟きは、同胞の呻き声に掻き消されて、医師には届かない。 ■3話■ ブラック・ジャック目を開くと、そこは見知らぬ場所だった。 一瞬、状況が分からず、混乱する. 「もう、目が覚めたのか」 頭上から日本語が聞こえた.懐かしい母国語。数ヶ月は聞いていない. 「ブラックジャック?」 自分を呼びかける声が聞こえるが、俺はぼんやりと天井を眺めたまま答えなかった. 答える。答えなければならない。 そう頭の中では思っているが、何故か行動にはうつせない。 何故だろう。 「ブラックジャック」 また、聞こえた.俺を呼ぶ声.この声は誰だっけ? 「おい」声は言った.「脳みそやられたのか?早漏童貞短小男」 「誰がだ!!」 「…なら、返事ぐらいしろ」 目の前に現れたのは、隻眼の青い瞳。 ああ、と思い出した。 「随分とひどい顔じゃないか、ドクターキリコ」 ゆっくりと答える。思わず口から出たのは、母国語ではなく英国言語。 それを聴いて、キリコは軽く眉を顰めた。 「日本語で言え、先生」安楽死医は静かに言った。「それも、大分、崩したやつで、だ。ここは監視が入っている」 そこまで言ってから、彼は、ああ。と言った。「お前は普段から口が悪いから、心配ねえか」 「悪かったな」 答える。つまり、監視の人間は日本語に堪能というわけではないということか。 そこまで考えてから、ゆっくりと辺りを見回した。 さほど広くもない室内は、最低限の家具しか置いておらず、ありふれた病室のようでもあった。 実際、自分が寝ているベッドも、医療用のそれにみえる。 「…ドコなんだここは」 「2発ほど貫通だった」 質問には答えず、キリコはベッドの淵に腰を下ろす。 ぎしり。小さくベッドが男性の二人分の重みに声をあげた。 「3発は掠っただけ。どれも致命傷じゃなくてよかったな」 「ここはドコだ」 「全身打撲、肋骨も罅がいってるだろな。頭部の挫傷も少し深めだ。嘔吐感があったら言え」 「キリコ」 「なんでここまで抵抗したの」 最後の言葉に、ぎくりと言葉を呑む。 なんでここまで抵抗したの。 そりゃ、いきなり拉致られもすれば、抵抗ぐらいするさ。 その言葉を、俺は呑み込んだ。 それぐらい、低くて、怒気を孕んだ男の声。 この男からは珍しく、いや初めて聞いた感情を孕んだ、その声。 「馬鹿だな、ブラックジャック」 キリコは言った。その声はいつもの声。「先手必勝もいいが、時には相手の出方を見るために大人しく従ったほうがいい。 抵抗が過ぎると反撃が手酷いぜ」 「肝に銘じとく」 「お、珍しいな」 にやにやと笑う彼は、もういつもの厭味な死神だ。 珍しいのはお前だろう。と悪態をつく。 「とにかく」俺は再度言った。「ここはドコで、あの連中は何者で、なんで俺が半殺しにされなくてはならねえんだ!」 「ここはフランスで」キリコは言った。「あいつらは元軍人で、お前はとばっちり」 運が悪かったなあ、と笑うのはいつもの死神。 つまり、この安楽死医の面倒な事情に、俺は巻き込まれたのか。確かに運が悪い。 だが、しかし 「ドクタージョルジュ…てのは、お前さんのことかい?」 先の軍人との会話。 その固有名詞は確かに、この男へ向けられたものだった。 彼は静かに俺を見た。 それは、無言の肯定。 「…やっぱりお前は油断ならねえな」 無感情な声。抑揚の無いそれは、いつもの死神の声だった。 だけど。 彼は静かに、立ち上がった. そして、窓の近くにある簡素な木の戸棚の引出しを開けると、ごそごそと何かを漁っている. 暫くして、あった、あった、と言ってこちらを振り向いたときに、彼の手に握られていたのは、 「…何をする気だ…」 「怯えるなよ、先生」 それは布製の抑制帯。 死神は、その抑制帯を勢いよく左右に引っ張った. びん!布の特有のくぐもった音が、抑制帯の強度を物語る. 「上出来だな」 ぎしりと、彼は俺のベッドにあがり、馬乗りになった。 彼が乗った部分が重く圧迫され、鈍い痛みがじわじわと広がる。 「…重い…降りろ…!」 「痛えだろ?」 「…っくない!」 こいつ、わざとだ。 圧迫部位は先ほどの銃創。 治療処置してあるとはいえ、出来たばかりの傷跡を圧迫するとは、医師として言語道断。 「我慢強いねえ」 本当に愉快そうに笑って見せると、俺の両手を掴み、頭上に押し付けた。 抑制する気だ。 咄嗟に抗い、死神の頬を殴りつけようとするより早く、死神の裏拳が俺の頬にめり込んだ. 「おとなしくしな、先生」 裏拳の衝撃が肋骨に響き、胸痛と頬の痛みに顔が歪む。 その間に、死神はさっさと両手を抑制帯で縛り上げ、ベッドの金属パイプ部分に縛り付けた. 次々と、足と腰の部分も縛り上げられ、見事に動く事が出来ない. 「俺は出掛けてくるから」彼は言った.「おとなしく待ってろよ、先生」 「こんなことしなくても、こっちは重傷人だぞ」 「お前は、油断ならねえからな」 「馬鹿言え。第一、トイレはどうする」 「採尿パックでもつけてやろうか」 「ふざけるな!」 「なるべく、すぐもどるぜ」 ぱたん。ドアの閉まる音. 奴が出て行った後は、完全な静寂。 物音一つせず、耳が痛くなる。 一体、なんだというのだ。 手足はぎっちりと拘束されて、少しも動く気配もない. それでも、なんとか外そうと、ぎしぎしと手足を動かした. お前は、油断ならねえからな それは、どういう意味だ。 一体、何をするつもりなのだ。 何を隠している。 何を知られたくないのか。 なにより、 何故、俺がとばっちりを受けなければならないのか。 布製の抑制帯は、ぎちぎちと悲鳴をあげている。 ■■■ 大佐から渡された資料に、ざっと目を通した. 驚いた。もうほとんど出来上がっている。 「君の研究成果だよ、ドクタージョルジュ」 大佐の声.聞きたくもない言葉. 構わず、大佐は耳元で言葉を続ける.「後一息なんだ。君の力を借りたいんだ、君が必要なんだ、分かるだろう?」 焦るような熱を宿した囁きを含みながら、大佐の唇が噛み付くように重なってきた. 口内をむさぼり尽くすような、情熱的な口付け。 それに対し、私の身体は冷静にそれを受け入れ、それでも尚、熱を宿さず冷たいまま。 「冷たい男だ」 相変わらず、と、大佐は笑いながら、再び唇に貪りつく。 「…私じゃなくても」死神は、言った。「私以外の人間が、大佐に相応しい人間がいるのでは」 抑揚のない台詞に、大佐は低い声を漏らして笑った。 「いない、訳ではない」 色づいた呼吸をすりつけて、大佐は死神の形の良い耳に唇を寄せる。 「だが、ジョルジュ…分かるだろう?…君は私の……」 「分かっています」 醜悪だと思う. この行為に、これからの行為になんの意味があるのだろう。 今も、そしてあの時も、これらの行為にはなんの意味もなかった。 この男は、笑いながらも、快楽に意味などいらないと、やはり笑っていた。 快楽。 それすらも感じられない。 何故なら、ここにあるのは、ただの排泄行動。 快楽など感じることなく、私の身体はただ冷たいまま。 「まさに、死神といったところか」 唇を離し欲を含んだ声で、大佐は呟いた。 彼は私の前にひざまつくと、慣れた手つきで私のズボンに手をかけた。 そして、私のペニスに貪りつく。 さきほど口腔内を貪るように、情熱的に。 大佐はいつでも情熱的だった。 どんな時も情熱的だった. しかし、私の身体はその熱には溶けることなく、硬く、冷たく、変わらぬまま。 「抱いてくれ、、ジョルジュ…」 甘く囁く、脅迫。 ここで「厭だ」と答えれば、私の妹の生命は亡くなる。 あの、日本人医師の生命も。 ああ、面倒だ。 だが、この脅迫を私は無視する事が出来ない事を、大佐は知っている. あの時、 抗うのを止め、総てを停止させたこの身体に、ここぞとばかりに噛み付き、貪り食う、 欲情を擦り付け、独りでよがり狂う色情狂。 私の力を借りたいといった. 熱を放棄したこの身体は、情熱的な大佐にはお似合いなのか。 よくわからない。 何故なら、私の身体はあの戦場で色をなくしたまま。 色を放棄したまま。 組み敷く男の身体を、男の脅迫通りに貫いた. 大佐に含まれ勃起した私のペニスは、機械的に律動する行為に、単純に反応する。 それはただの生理現象。特に男性性器など刺激さえ与えてやれば、やがて射精へと達するだけ. しかし、得られるはずの快楽を感じられないのは、私の身体が可笑しいのか. 熱を忘れたこの身体から、欠落した快楽。 欠落したのは、快楽、と。 資料に目を通した後に連れて行かれたのは、懐かしい研究室。 堅固な防護服を身に着け、数人の人物が研究に当たっている。 それは、男なのか女なのか 若いのか、年老いているのか 細菌はおろかウィルスすらも遮断するであろう、その防護服は、個人を押し込め、ただ忠実に任務をこなす為だけの装置にすら思えた。 それはまるで、プログラムに従う旧式のロボット。 嘗ては、自分もあの中のひとりであったはずなのに。 それは、あの当時と寸分違わぬ、コピーされたかのような空気。 この空気を吸い、そしてやはり、忠実に任務をこなしていた己の姿が、あったはず。 だが、今はもう、思い出せない 思い出すのは、自分が手にかけた人間たちの最後の一呼吸、だけ。 ずくりと、欠落した左眼が疼く。 「もう、最終段階まで一息…てとこかなあ」 大佐の声は笑っていた。「動物実験は済んでいるんだ。あとは人体への影響が知りたくてね」 「反対します」キリコは言った。「そう、あの時も提言したはずだが」 「そうだね」 くすくすと大佐は笑った。「でもね、やっぱり欲しいんだよ。今はあの時と違って、合法的に実験出来る肉体がなくて、残念」 「どうする、おつもりで」 「君は気にしなくて、いい。スポンサーと考えるから」 手を少佐は伸ばした。柔らかく冷酷そうな、キリコの白銀髪へと手を伸ばす。 「ああ、ジョルジュ」そして、その髪へ触れる。「君の髪…もう見事な銀色だね…妹さんとそっくりだったのに」 「……」 無表情で、無言でキリコはその手を受け入れる。 拒否することなど許されないかの如くに、彼はこの軍人には従順だった。 それは、かつての上官だったからではなく、 人質を捕られているからでもなく、ただ、うけいれていたのかもしれない。 彼が心を、その人としての感情を揺り動かすのは、この上官では物足りないのか。 いや、彼は、ただ受け入れていたのか。 大佐は、昔も今も、この男の感情を支配できるのは、自分しかいないと錯覚している。 だがそれは、遠い昔の幻想。 彼が大佐の下から去ってから、彼は死神の化身と呼ばれる者になった。 それは揶揄ではなく、皮肉でもなく。 その仕事を、彼の信念を、彼の覚悟を目の当たりにした者が称した、彼への恐怖。 死神の化身 そう呼ばれるこの男の姿を、大佐は知らない。 ただ、変わったと言えば、その髪の色。 自ら悪をなさば自ら汚れ、自ら悪をなさざれば自らが浄し、 浄きも浄からざるも自らのことなり、 他者に依て浄むることを得ず 次頁