俺が医師になったのは、生きるためだった。
 誰の為でもなく、自分が生きるためだった。
 
 その為であるのなら、悪魔でも神でもよかったのだ。

 天才
 そう呼ばれる事に、抵抗は無い。
 その手を、悪に染めることも。
 俺は、俺は、俺の正義をもって、生きているのだから。







■4話■
  






 死神が研究棟をあとにしたのは、もう日も高く昇ってからだった。
 ドアを開ける前に、ちらりと、あの日本人医師は逃げ出したかも。
 とかそんな考えがよぎる。
 静かにドアを開ける。
 そして、目的のベッドには、ちゃんと日本人医師がいた。
 まあ、当然か。
 銃弾を5発も食らった上に、全身打撲、肋骨に罅の重症だ。
 これで、この拘束を解いて逃げ出していたら、彼は医師ではなく政府の諜報員か何かだろう。
 ベッドに近づいて、彼の顔を覗き込む。
 よくみると、手や足の抑制帯が大分緩んでいる。
 そうとう暴れたようだ。
 瞳を閉じている彼が本当に眠っているのか、彼の瞼に手を近づけた瞬間、
 がちん!
 素晴らしい動きで、彼は私の指に噛み付いてきた。
 慌てて指を引っ込めたので、噛み付かれずにすんだが、
 この空を噛む音からして、本気で食いちぎるつもりだったか。
「…起きてたか」
「寝られるか!この状況で」
 まるでガキのように、天才外科医は叫んでいた。
 いつもの凄みや、鋭さもなく。
「もしかして」死神は言った。「トイレは大丈夫?」
「大丈夫じゃないから、早く解け!」
 焦る彼の口調。
 ああ、なるほど。しかし
「ダメだ」
「なんでだ!」
「お前は危険だからな」
「私には、この状況のほうがよっぽど危険だ!」
「まあまあ、大丈夫よ」
 飄々とした口調で、死神は用意していたそれを取り出した。
 まあ、はっきり言ってしまえば、これは嫌がらせだ。
 死神が手にしているのを見て、彼は絶句した。
 そう、死神が手にしているのは、介護現場では大活躍の、ハンディ型男性尿器。
「ま、まてまてまてまてまて!!!」
「あれ、もしかして便の方?」
「ちがう!」
「じゃあ、いいじゃない」
 彼のふとんを捲り、ベルトのバックルに手をかけると、いよいよ本気で暴れだした。
「まてキリコ!手を解け!自分でやる!!」
「まあまあ。患者の下の世話ぐらいしてやるから」
「それは看護分野だ!医師の職務内容じゃないだろ!!」
「俺、ナースの資格も持ってるから」
「嘘つけ!!」
「嘘だよ」
「ふざけるな!」
ばきい!と、すばらしい音がして、右手を拘束していたベッドの金具が抑制帯ごと外れた。
そのまま、彼は勢いで殴りかかってくる。
この男、本当にどっかの国の諜報員かもしれない…。
「わかった、わかった」
 殴りかかってきた右手を、難なく押さえ込んで、死神は白旗をあげる。
「両手の拘束は解いてやるから。自分でやれ」
「…最初からそうしろ、アホ」
 左手の拘束も解いてやり、彼の背に手を回して上半身を起こしてやった。
 本当なら、起きるのも辛い筈だが、彼は苦痛の表情一つみせない。
 ただ、やはり動作の一つ一つが酷く緩慢だった。
「…おい」
 ベッド脇から去ろうとしない死神に、BJは低い声で命令する。「あっちに行け」
「どうして」
「そんな様子観察されてりゃ、出るもんもひっこむわ!」
「気にするな」と、死神。
「私が気にするんだ!!」
「…見られたくないようなモノなわけ」
「貴様」彼は獣のような眼差しで言った。「お前が死ぬ時は、私がトドメをさすぞ、絶対にだっ!」

 別に気にすること、ないと思う。
 まあ、自分が彼の立場なら、絶対に厭だが。
 100歩ゆずって、彼の排泄物を捨てる役目は仰せ付かった。
 こんなにも、顔を真っ赤にして怒鳴りつけるのを、みるのは初めでだった。
 こんなにも、からかいがいのある人間だとは、思わなかった。
 天才外科医。悪徳無免許医。そう称される彼は、いつでも冷静に分析する。
 何者をも寄せ付けない、孤高の闇を身に纏い、悪戯に触れようとする者には冷酷に切り裂く鋭利な気配。
 間違っても、下の世話を嫌がり大暴れするようには、決してみえない。
「…何を笑っている」
 子どものように、不機嫌丸出しの声で彼は睨みつけてきた。
 ひとまず、用が済んだら、また両手を拘束する。
 今度はおとなしく、されるがままだった。
「暴れないのか」
「これ以上、体力を使いたくない」
「賢明だな」
 拘束し終えてから、死神は医薬品の棚から抗生物質と鎮痛剤、包交用の機材を出した.
 そして、それを傍へ置き、簡単に彼を診察する.
 あれだけ暴れたからだ、傷が少し熱を持ち始めていた。
「不良患者の見本だな」
嫌味を言いながら、ラテックスグローブを嵌めた。傷口を消毒してガーゼを交換する。
彼は黙ってされるがままだった。
「…何をしている…」
呟くように、BJは尋ねた.
「何って…包交」
「ここで、だ」彼は死神を見ずに、呟く。「お前は、ここで何をしているんだ」
「さてね」
「答えろ」
「言えねえよ」
「また、安楽死か」
 彼の言葉には答えず、死神は使用したガーゼとグローブを医療廃棄物用のポリ袋へ放った.
「安楽死か」
もう一度尋ねてくる。
「もう、寝ろ」
 右手の拘束を緩め、右腕上腕部に注射する。
ゆっくりと薬液を注入するのを、彼は黙っていみていた。
針を押えて、ゆっくりと抜く。しばらく注射した部位を押えていると、彼はまた呟いた.
「…手馴れているな…」
「そりゃあね」
 彼の声は、もう夢うつつのようだった。
 いや、熱発したのか。頬に赤みがさしている。
 まあ、あれだけ暴れたのだから、熱をだしても不思議ではないのだが。
 ほどなくして、彼は小さな寝息をたてはじめた。
 今度こそ、本当に眠ったようだった。

「また、安楽死か」

 この男は、臨床医のくせに安楽死には、とことん否定的だ.
 時には奇跡の腕と称される程の、彼の外科手術は。もう何人もの命を救い上げた、と聞く。
 それだけの技術を持つ、天才か。
 安楽死。
 ずくりと、欠落が小さく疼く。
 そう、私は殺しにきたのだ。
 殺すために、きたのだ。
 そのために、私は、ここに、いる。





■■■







目が覚めるた時には、もう死神はいなかった。
意識が多少ぼんやりとする。
体が気だるいのは、熱発したからか。とBJは自身の体調を結論付けた。
 ふと、気づく。
 右手の拘束が解かれている。
 忘れたのか、おとなしくしていると思われたのか。それとも。
 どちらにしろ、甘い男だ。
 眩む意識を追い払うため、自分の右側の唇と頬の裏の肉を同時に噛み切った。
 鋭い痛みと血の味が口中に広がり、頭の芯がゆっくりと冷えていく。
 抑制帯を外すと、ゆっくりと起き上がった。
 体中から、ぎしぎしと音がしそうな痛みが湧き上がる。
 それを無視して、室内に唯一ある薬品棚へと歩み寄った。
 並んだ薬品は、有り触れた市販品のものばかりだった。
 ラベルはフランス語で書かれているところみると、やはりここはフランスか。
 引き出しを上から順にあけていく。
 一番上は、ガーゼやテープなど、簡単な包交器材。
 二、三と開けて行く手が止まる。
 三番目の引き出しには、滅菌されたプラスチックの袋に入った、手術器具があった。
 普通、手術器具をこんなところへは置いておかない。
 これは罠か、それとも、もっと別な意味合いか。
 プラスチックの袋をやぶり、メスを取り出した。
 使い慣れた器具。
 その刃先をコットンで覆い、自分の靴の中へ一つ、
 そして、長袖を捲くり、布製の包帯で左腕に1本、括りつけた。
 一番下の引き出しにはリネン類が、しまい込まれていた。
 几帳面に畳まれたリネンの折り重なった部分一つ一つに、手を差し込む。
 何回か動作を繰り返すうちに、それは見つかった。
 小さな、拳銃。
 隠し方があまりににもお約束だったので、弾奏を確認すると、ちゃんと弾は装填されてあった。
 実弾かどうかはわからないが。
 拳銃を使用した経験はある。
 一般の日本人がそうであるように、拳銃自体には慣れ親しんでいた訳ではない。
 この裏家業に足を踏み入れた時に、必要に迫られて使用したのだ。
 護身用の拳銃も、当然持ってはいる。
 だが、なるべくなら使いたくはなかった。
 身を守る武器にしては、この道具は、あまりにも殺傷能力が高すぎるから。
 かちゃり。不意に自分が立てたものではない小さな音が響き、ドアが遠慮がちに開いた。
 そのドアを、BJは注視する。
 入室してきたのは、金髪の白人男性だった。
 自分に発砲した男。
 ドクターキリコが『大佐』と呼んだ男。
「お体は如何ですか、先生」
 男は優雅に尋ねた。英語。美しく流れるような。
「快調です」
 答える。
 自分が発砲しておきながら、それを言うか。
「ドクターの処置が良かったようで」
「それは、よかった」
 笑いながら、男は言った。「私はローレンス・スミス。ロルとお呼び下さい」
「スミスさん」言葉を無視して言った。「私はいつのなったら、開放されるんです」
「契約、次第ですか」
 スミスは小切手を差し出した。
「貴方のお噂を聞きました。貴方に是非治療していただきたい患者がいます」
 小切手の金額蘭は無記名であった。
 それは、こちらの言い値をいくらでも用意できるという、余裕の表れか。
「…お断りします」
 はっきりと、告げる。
「何故?」
 表情を変えずに、スミスは尋ねた。まるで、人を観察するかのように。
 そして、隙あらば、この喉笛にでも噛付き、食い千切りるのだろうか。
 この男の眼は、死線を掻い潜ってきた獣の眼だった。
 だが、BJもまた、闇を自ら切り開き、運命を勝ち取ってきた人間。
 隙をみせる事など、するはずもない。
「理由が必要ですか」
 問いの答えに、スミスは「なるほど」と呟き、笑って見せた。「だが、残念ながら、選択肢はないのですよ、先生」
 小切手を内ポケットへとしまい、スミスは笑ったままだ。
「私は、貴方を殺してしまうこともできました。あの時に。だが、貴方は生きている。何故だと思います?」
”退け、ブラック・ジャック”
 死神の化身の言葉が、耳元に蘇る。
 とばっちり…そうだ、つまり、自分は死神の化身にとっての…。
”すまない”
 いつも皮肉に嘲笑う死神の化身。巻き込んだ。そう奴は思ったのか。 
「…貴様…!」
 拳銃を握る右手に力が入る。
 自分の預かり知らぬ処で、自分が使われた。
 それも最悪な形で。
 全身から怒りが吹き出るような、激しい感情が沸き起こる。
 張り詰めた空気が室内を支配した。



■■■





 ドアを開ける前から、違和感はあった。
 予感とも言えたか。
 だが、そんな自分の感覚を人事のように無視して、死神はゆっくりとドアを開けた。
 室内は、暗かった。
 カーテンを閉めた覚えはなかったが。
 暗闇の中で、不意に、胸倉を掴まれ、足払いをかけられた。
 バランスを崩し、背中を床へ打ち付けられる。
誰かが馬乗りになり、そして、その闇の中で銃口を向けるのがみえた。
「…どうした」
 さして驚きもせず、死神は尋ねた。
馬乗りになり、銃口を向けたままBJは口を開く。「貴様はここで何をしている」
「…何を知った」
「何も」
静かな声。「ただ」それは月を秘す夜空のような。「スミスとかいう男から依頼は受けた」
「そうか」
「貴様はここで何をしている」
もう一度、尋ねた。
静かな声だった。それは、まるで狂気の月を意図的に隠した
闇色の夜空のような、絶望の問いかけ。
それを、俺に言わすのか。
この天才外科医は。
「あの男は、貴様の何なんだ!」
 答えぬ死神に苛立った。
「何故、黙って従っている?お前は、お前の信念がある筈だろう!
どうして、あの男はお前の、何なんだ!」
 真っ直ぐにぶつけてくる言葉。
 射抜くような視線。
 その深い紅い瞳の色が、ふと、血を臭わせる。
 身体から噴出す、身体から滴る、身体から流れ落ちる
俺を狂わす凶暴なその色が。
 ずくりと、欠落が、疼く。
「……!」
 突然。死神が銃身を掴み、その手から引き剥がした。
 間髪入れずに、その拳銃で男の身体を殴りつける。
 この男が重症の身であることなど、最早どうでも良かった。
 歪む表情に、容赦なく拳をめり込ませた。
 鈍い音が何度も響く。
 死神は、男を組み敷く形で、咽喉を片手で掴み、歪んだ笑みを無理やり浮かべた。
 僅かに力を込める。
 ごくりと、手の中で男の咽喉が鳴った。
「痛てえだろ」
 死神の声にBJはぎらりと睨みをきかせる。
 その、瞳の色。
「あれは、昔の俺の上官だよ」
 感情も抑揚もない声だった。
 ただ、視線が、この死神の隻眼が、恐ろしくも凶暴な牙を向いた獣のように正気を失っている。
 咽喉を掴んだ手に力が込められた。
 圧迫される気道に、息苦しさと生命の危機を感じ取る。
 見るものがみれば凍りつくほどの殺気を、死神は隠すことなく、躊躇い等せずに手に力をこめつづけた。
 両手をBJは頭上に揚げた。
 そして、Yシャツの袖に右手を滑らす。
 刹那、右の手を袖からその刃を抜き死神の頚動脈を狙って腕を振り上げた。
 だが誤算は、身体のダメージは殊のほか蓄積されており、その一撃は難なく死神に止められた。
 BJの右手首を掴み、ぎりぎりと力を込める。
 咽喉から手が離れて、大きく咳き込む彼の胸倉を掴んで、顔を引き寄せた。
 からん。手の内から銀色のそれが離れ出でた。
 死神の隻眼に、それがちらりと映る。
「用意周到だな。ブラックジャック」
耳元にその言葉がねじ込まれた瞬間、BJの鳩尾にキリコの拳が食い込んだ。
「…ぐっ…!」
 くぐもった声と共に、彼は嘔吐した。
 吐瀉物には血液が混じり死神の衣服を汚すが、構わずそれをみつめていた。
「可哀想に、内臓を痛めたか」
 胸倉を掴んでいた手を放した。
 糸の切れた操り人形のように、彼はゆっくりと倒れた。
 肩を上下させながら、喘鳴を響かせる。
 息をするのも苦しいのだろう。
 死神は吐瀉物で汚れた衣服を脱いだ。
 そして、BJを見る。
 折れない男だと、感じた。
 自分が定めた信念を軸に、敗北を認めることはないのだろう。
 その為には、必ず立ち上がる。
 それは天才故の自信か、己自身の傲慢さか。
「…手を退け…死神…」
息も絶え絶えに、それでも、BJの声は力を失わない。「…お前にも信念は…ある…反する…ことを…何故…従う…」
信念。ああ、そんな言葉、あったような気もする。
 だが、今の自分には無縁となった言葉だ。
 信念?違う、総ては、施されたこと。
 ずくりと疼く、その欠落が、暗く、確実に囁きかけてくる。
「…手を退け…!」天才外科医は、告げた。「信念がなけりゃ……ただの人殺しだっ…!」
「黙れ」
 退くことを知らない男だ。
 こんなにもボロボロにされたというのに、この言葉、そして揺るがぬ意思は
 赤く燃える炎のよう。
 この男、例えこのまま殺されたとしても、この強靭な意志を宿す瞳は力を失わないか。

 この野生の獣のような精神が折れるとき、この天才は

 死神は、男のベルトのバッグルに手をかけた。
 この男の気高き精神を、信念を、その傲慢さをぐちゃぐちゃに掻き乱した時に、この男は
 それでも孤高の天才であることを誇示し続けることができるのか。
「…な…にを…」
 肉体的な暴力を振るっていた死神の手が、全く別の動きをみせたことに、男は顔色を変えた。
 ずるりと引き摺り下ろされた衣服に、男はその行動の意図を理解したのか制止の声をだす。
「やめろ…キリコ…何を考えている…!」
「さてね」
色のない声。行為との差に恐怖さえ感じる、その言葉。
「あの男は、俺の昔の男だよ」
今更、どうでも良いことだなと思いながらも、死神は独り言のように囁いた。
「暴れるなよ、先生。言っただろ。抵抗が過ぎると、反撃が手酷いって」
「…やめろ…貴様…!」
重症の身体に手加減無しの暴力を振るった上での、性行為など、キチガイ沙汰だ。
下手をすれば、生命だって危うい。
「先生、初めて?…ああ、俺も日本人は初めてだな」
外界へ晒された日本人の性器を無造作に掴む。
小さな悲鳴を、男はあげた。
心的な外傷を与えるのは、実は簡単。
性行為は、もっとも手軽で、最も屈辱的。
愛情を伴わないその行為は殺人とも等しい。
その一瞬の行為は人の最も尊く、柔らかく、根底を、奥底を、時としては幸福だった思い出すらも、醜く傷つける。
それでも、
この天才は、その潔癖で、不屈の精神を保つことができるのか。
どうしようもなく突き上げる、その暴力と紙一重の衝動は
陵辱や残虐といった言葉の方が相応しい。
 それでも
「ふざけるな!、、、手を離せ」
今にも喉笛に噛み付き切り裂いてしまいそうな、その闘志。
睨むその瞳の色は、まるで血液のよう。
 身体から噴出す、身体から流れ出る、身体から滴り落ちる。
 この血の色をした瞳が、その光を失うとき、
 自分のこの凶暴な牙は満足するのか。
 この天才外科医を食らいつくすことができれば。
 それは、正直分からなかった。
 疼くのは、欠落した左眼と、滾る感情。
 ただ、身体が、熱かった。
















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