もしも、お前が本当に神だというのなら、 その奇跡は、何故、平等に起こらない。 もし、お前が本当に神の手を持つというのなら、 その作り出される奇跡は、何故、限定される。 神を冒すのが罪ならば、神と称されるのもまた、罪ではないか。 何故、お前は、ここに存在した。 何故、お前は。 ■5話■ 「…キリ…!」 擦りあげる性器が手の中で硬くなり、やがて射精へと達する。 男性性器の仕組みなど、単純で従順だ。 無理やり与えられた快感を、押し殺すように、天才外科医は歯を食いしばる。 唇を噛み切ったか。唇よりも濃い赤い色が、それを濡らした。 その彼の行動から、死神は過去を瞬時に、読み取った。 「初めてじゃあ、ないわけね」 言葉にBJは一瞬だけ硬直した。 悟られたことに、悔しさが滲む。畜生…と微かに呻いた。 「初めてじゃ、ないわけか」独り言のように、死神は呟く。「…そうか…先生。もしかして、ゲイ?」 「黙れ…!」 「じゃあ、バイ?俺と一緒だね」 抑揚の無い口調。だがその言葉が、死神の固く薄い意識を、パリンと割った。 それはきっと、死神が意識していない感情。 そうか、そういうことか。 そう自分に納得させると、死神の深い部分、黒一色の汚れて濡れていた部分が、僅かに凍りついた。 安堵?まさか。 軽蔑?そんな権利はないだろう。 ただ。 この気高い精神も、所詮は人間。 天才と言えども、所詮は男。 欲望に忠実な、ただの雄というわけだ。 結局は、どんな綺麗事を並べても、一皮向けば、皆同じなのか。 この日本人に、何を見たかったのだ。 天才とも神とも称されようと、所詮は人間。 当たり前ではないか。 当たり前の事だ。 当然じゃないか。 それなのに ずくり。疼く。欠落したものが。 「キリコ…いい加減にしろ…手を離せ!」 それなのに、その瞳は力を失わない。 挑発的な口調。その切り裂く鋭利な孤高の精神。 「いやだね」 その紅の視線に焼かれて、血液が熱を持ったようだった。 指先の毛細血管までもが熱く、熱く、脳の奥底を焼き切るよう。 組み敷く男の片膝を、肩へと担ぎ上げる。 男の精液を後項へと塗りつけて、死神は己の指を突き刺した。 広げるように、ぐちゃぐちゃと卑猥な音を立てて掻き乱すと、 その行為を知るその身体は、次第に弛緩していく。 それでも、男の表情は、感情を押し殺すように歪んだまま。 「もう観念しろよ、先生」 見下ろすように、囁いた。 「お前は、ここで、俺に食われちまうの。人間、諦めが肝心」 「ふざけるな…!」 この屈辱を孕む行為に抵抗できないほど、身体は傷ついているのに 折れないのか、抓みとれぬのか、引き裂けることはないのか。 「何を、考えているの、先生」 場違いな質問を、キリコは浴びせた。 この男、何を考えている。 何を考え、何を感じ、何を背負っている。 その行動原理と、思考回路は、凡人には理解し難いということか。 天才が、その女のようにしなやかな指先が生む奇跡は、何故、お前の指先からしか生まれない。 この世の医師が憧れ、焦がれ、渇望する、生命の奇跡が、 何故こんな傲慢な男の手から生まれるのだろう。 食らってしまおう。 もう考えるのは、無駄だ。 所詮は、変えられぬ、変わることのない、この一瞬。 終われば、ただ相容れぬ同士。 それが深く、深まるだけ。 ただ、それだけの、こと。 それでも、その滴る生命の紅のような、その瞳が。 猛るように疼く、欠落が。 幻想だ。 まやかしだ。 何を期待している。これは、所詮戯れごとではないか。 考えるな。考えるな。この行為に意味などない。 その傲慢な口を食らうように、キリコは前髪を攫んで顔を近づけた。 「やめろっ!!!」 首を振り、BJは死神の身体を、口唇を全身で跳ね除けた。 それは、初めてこの行為に、恐怖を感じたかのような、反応。 「なに、びびってるの、先生」 張り付いたような笑みを浮かべて、死神は再び手を伸ばす。 口付け如き。 ここまで蹂躙されて、今更ではないのか。 「キスが嫌だなんて、ガキだな」 伸ばされた手に、本気で怯えているのが分かった。 何故。 尻の穴に手を突っ込まれたって、屈しない男が、何故。 民族性の違いか。それとも。 日本人医師が、死神の手に捕らえられる。 再び近づく死神の顔に慄いた。 まるで器具に固定されたかのように、動かすことのできない、身体。 「やめろ、キリコ!…やめるんだ!!」 子どものように頭を振って彼は叫んだ。 ああ、馬鹿な男だ。 そこまで嫌がれば、その口付けが、特別な意味を持つことぐらい、バレてしまうのに。 死神の化身は、無理矢理その日本人医師の唇を奪った。 少しかさついた、薄い男の唇だった。 味わうように、口腔内を舌先で抉る。 刹那。抱く日本人医師の全身が、弛緩した。 堕ちた---厭、諦めたのか。 その燃える赤い瞳が、暗く濁る。 潰れたか、壊れたのか。性的行為でではなく、 ただの口付け、一つで。 手を放し、その顔を覗き込んだ。 暗く濁る目。それはまるで、今まで見続けてきた、死に際の 最後の一呼吸を終える瞬間のような、無表情。 瞬間。 天才外科医の力任せの拳が、死神の頬に食い込んだ。 不意をつかれ、その拳をそのまま受けた死神は、反射的に反撃していた。 それは身体に染み付いた、反射行動。 鈍く、厭な音が室内に響く。 「…キリ…」 焦点のあわない目、掠れた声でBJは「…クソったれ…」 呟き、そのまま沈黙した。 気を失ったか。 最後の最後まで、口の減らない男だ。 気を失った男を抱き上げ、キリコは医療用ベッドに横たえる。 そして、改めて、男の身体を診た。 あれは、なんだったのか。 暗く濁る、赤い瞳。 最後の一呼吸を終える瞬間のような、無表情。 あれは、この男の 最も深く、最も柔らかく、最も神聖な、 恐らく容易く傷を残せた瞬間ではないか。 あの時にそれを捕らえ、抉りとり、刃を突き立てて傷を負わせ その精神を引き裂くことも、殺してしまうことさえできたのではないか。 それが、目的だったのではないか。 目的? ああ、そうだ、そうするはずだったのだ。 でも躊躇ったのは。 あの、暗く濁る赤い瞳を見た時、死神のその手が躊躇ったのだ。 その理由に名前をつけることを、キリコは敢えてしなかった。 ■■■ 数時間前。 BJはスミスに連れられて、研究棟へと来ていた。 通されたのは、ありふれた診察室。 予防衣と医療用サージカルマスク、ラテックスグローブ、そしてカルテが手渡される。 「患者は全部で8人。人体実験の被験者です」 ごく普通の、まるで世間話をするかのように、スミスは続けた。 「実験は、静脈注入による薬物投与と、投与者と生活を共にした感染」 「薬物はなんだ」 「それは、教えられません」 「ふざけるな」 「ふざけちゃいませんよ」 くすくすと、笑いながらスミスは「天才とも称される貴方が。この症状を治療できなければ、 恐らく世界中の誰にも治療は不可能だ、という証明にもなるでしょう?」 「買いかぶってやしないか。私は唯の外科医だ」 「唯の外科医に、あの死神の化身が惹き付けられるわけがないでしょう」 それと。と、スミスは続けた。「この薬物の開発者は、あの死神の化身でしてね。 彼が作り出したのですよ、この素晴らしい薬物を」 「…そうか」 平静を装い、答えた。 この男、人の反応を見て楽しみ、甚振るのを悦とする類の人種だろう。 随分、買いかぶられたものだ。 8人分のカルテにBJは集中した。 それはカルテというよりも、冷静で冷酷な観察記録のようなものだった。 初めは全身の倦怠感。 咽喉の渇き。食欲不振、発熱。 異常発汗。浮腫。細かな発疹、嘔吐。下血…。 「ジョルジュは、優秀な医師でしたよ」 突然。ウットリと、まるで恋人の事を語るように、スミスは口を開いた。 気にしていない。そう装いながらも、意識は耳に集中する。 文字を追う目が、何度も同じ箇所を眺めていることに、日本人外科医は気づいていない。 「軍医の基本は、前線に送り出す為の治療。だから、軽症者が優先で重症になるほど、後に回される」 やはり、くすくすと笑いながら、スミスは語る。 「医師を志してきた若造は、無力感に押しつぶされるか、狂うか、どちらにしろ、役に立つ者はほとんどいなかった。 そう、彼以外には」 常に耳に響くのは、爆撃、機銃、呻き声。 物資も足りず、知識も足りず、人の手も、水すらも足りない。 病院とは名ばかり。 医師とは名ばかり。 運び込まれてくる重傷者をレベル分けをして、手の施しようのない人間には、鎮痛剤すら投与せず。 瞬時に死にそうな人間は、切捨て、 戦えそうな軍人には包帯を巻き、 それは、すべて、この国の人間を殺す為の医療。 「ジョルジュは、優しい男だった。人を見捨てることができなかった。 重症人を見捨てることなど当たり前の、あの狂った野戦病院の中で、誰一人見捨てることなく、 自分を省みることなく人を救い続けようと、必死だった」 「見てきたように、言いますね」 カルテはBJの手の中にあるだけで、目に頭に入っては来なかった。 「そして、今の死神の化身があるわけですか」 「確かに、私は前線にはいなかったですよ。私が聞いたのは、彼の噂」 「何れにせよ、私は彼と相容れることはない」 「ジョルジュが初めて安楽死させたのは、前線でも優秀な兵士だった。 『レディ・プレジデント』と呼ばれる、指揮官でしたよ」 噛みあわない会話に、突如落とされた、石。 「ジョルジュが初めて殺したのは、彼が尊敬する、女性兵士でしたよ」 ゆっくりと、スミスは告げた。 まるで、BJの思考を、ゆっくりと蝕むように。 「それから、彼は次々と、重傷者を手にかけた。中和したビタミンCやカリウム、手元にあった数少ない薬品から、 痛みもなく安らかに死ねる方法を考え出してね」 治療物資が不足しているように、安楽死を施す為の物資だって、不足していたのだ。 「彼は、本当に手際よく殺していた。薬物に関する知識と機転、あれは、天才的だと思いますよ、貴方のように、ね」 「……。」 「彼は、すぐに軍法会議にかけられそうになった。その寸前で、私が引き取ったのです。 彼に、化学を介する兵器の開発をしてもらうために」 「何故」ゆっくりと、BJは口を開く。「キリコは貴方に従う。あいつは、もう軍籍を抜けたのだろう」 「ジョルジュは私に逆らえないのですよ」 鮮やかに、スミスは笑って見せた。 色の交じり合った、陶酔したような、笑み。 あの死神は、自分の手から逃れられない。 それが言いたかったのか。 それを言いたかったのか。 次頁