陳腐な言葉だが、過去は消すことができない。 過去の過ちは、どれだけ否定しても事実であり、それは経験である。 それに囚われ続けるのは、果たして愚かか。 それを盾に従わせるのは、果たして悪か。 ■6話■ 薬物中毒において、外科的処置はなんら役にはたたない。 その症状緩和は、体内に入った薬物の中和が第一だからだ。 外科的処置は、その薬物中毒の間接的症状に対する対処療法にすぎない。 血液浄化法を試みながら、治療法を考える。 ただの薬物中毒にしては、あまりにも症状が特殊だ。 事前に知らされていなければ、ウィルス性、細菌性であることを真っ先に疑いそうな。 戦争が、 愚かなその行為から生まれでた、 人を死に至らしめる為に作られた 薬物。 ただ大量に、効率よく、人の死を願って作られた、死をもたらすために開発された、 その目の前の人間の人生をもぎ取り、土足で踏みにじり、 足元から響く死者の呻き声を、殺した人間の数を数え上げて、悦に入り、狂喜し、 自分が間違っていなかったことを、その殺人を正当化させて、大量に殺した人間の顔も、 名前も、性別さえも知ろうとはせず、ただそれは、大量の殺戮の手段として、国が誇る為だけの。 処置室のドアを開け、BJは廊下へと出た。 後ろ手にドアを閉めた途端、その端正な褐色の肌に汗が伝う。 苦痛に表情を歪ませることこそしなかったが、大きく息を吐いて、奥歯をかみ締めた。 「辛そうだな」 声に、BJはゆっくりと顔を上げる。 廊下の壁に凭れ掛るように立っていたのは、死神。 この、苦しめるためだけの薬物を作った、張本人。 「来い。定期診察だ」 乱暴に、死神は腕をとった。 その手を、BJは乱暴に振り払う。 「死神に診てもらうほど、重症じゃあない」 「嘘付け」 隻眼が、日本人を捕らえる。いつもの暗く静かな青い色が。 「立派な重症患者だろ。大人しくしないと、また酷いコトするよ」 言葉に、BJの眼つきが鋭くなる。 燃えるような、赤い瞳。 そう、その色。 天才外科医の首根っこを攫み、引きずりながらキリコは思う。 お前は、その方が似合っている。 その攻撃的な、人を寄せ付けぬその眼が。 誰も寄せ付けぬ、その孤高の闇が。 「離せ、変態」 減らず口も相変わらず。 部屋のドアを開けると、BJは大人しくベッドに座り、白いYシャツを脱いだ。 露出されるはずの肌は、白い包帯で覆われている。 「痛々しいな」 「誰のせいだ」 答える口調は固い。警戒心剥き出しだ。 あの強姦じみた行為から一週間は経とうとしていた。 当然といえば、当然か。 それでも、彼は診察中は大人しい。 それは信用しているということだろうか。 それとも。 「いつまで、こうしているつもりなんだ」 低く、呻るように、BJは死神に訊ねる。「あの被験者を助けるのは、ここでは無理だ。 そもそも助けようなんて気はないのだろう」 「そうだな」 キリコは答えた。抑揚なく、無表情で。 「目的は何だ」 凛とした口調で、天才外科医は言葉を発した。 その言霊に部屋の空気が張り詰めそうなほど。 「これだけの施設を運営するのは、企業だろう。それも世界規模でなければ、ここまでのものは造れない。 そんな連中が薬物兵器などリスクの高いものの開発を行うとするのなら--」 「ブラック・ジャック」 死神が名前を呼ぶ。 静かだが、強制力を持つその発声に、天才外科医は口を噤んだ。 「詮索するな。死ぬぞ」 「生きて返す気など、ないんだろ」日本人は言った。「あの、患者たちも」 「患者じゃねえ”被験者”だ」 「ふざけるなッ!」 怒声に、一瞬だけ死神の隻眼が瞬いた。 だがすぐに、それは冷ややかな眼差しに隠れ、あとにはやはり、何を考えているのか分からない、静かな碧眼。 「怒鳴るな、聞こえている」 抑揚の無い、言葉。それはいつもの死神の口調ではあったが、それでも、その声に僅かに揺らぎがあったことに、天才外科医は、残念ながら、気づかなかった。 ふと。 こんこん。遠慮がちにドアがノックされ、若い金髪の研究員が顔を覗かせた。 「ドクターBJ。大佐がお呼びです」 それは、酷くオドオドした態度であった。 ■■■ 昔話でもしよう。 大佐が天才外科医にそう告げたのは、もう2分ほどで日付が変わる頃だった。 豪奢なソファーに身を沈めるそれは、金を手に入れて名誉も地位も買い取った成功者のそれに似ている。 違うのは、大佐が未だに軍服のような薄緑色の服を纏い、胸には幾つもの花を象ったバッジを煌かせていることだろうか。 昔話でもしよう。と、大佐は言った。 突然呼び出された天才外科医は、顔色も表情も変えずに、入室してきた時と同じ立位のまま、大佐を見下ろしていた。 「そう、固い顔をするものじゃない」 片手をあげて、大佐は実に明るい声を出して見せた。 「私は気分がいいんだ。明日、私のスポンサーが来る。ぜひとも君にも会わせたい」 「それとこれと、何の関係が」 薬物兵器のスポンサーなど、天才外科医には、一つも興味はなかった。 だが、何故それに昔などというノスタルジックな事象を持ち出すのかということの方が、僅かだが興味をひいた。 その興味を、大佐は蛇の様な視線で、掴みあげる。 ねっとりと、ゆっくりと、まるで徐々に締め上げるように。 「君には兄弟はいないのかね」 「ご想像にお任せします」 身の上を振られ、天才外科医はその瞳を伏せる。 彼の伏せられた睫が、僅かに震えていたが、表情は変わることがなかった。 「君の父親は、君に似ていたかね」 「さあ」 「きっと、優秀で切れる男だったのだろうねえ」 勝手なことを。 大佐はうっとりと夢見る少女のように、頬を上気させて言葉を紡いでいた。 一体、どこからそんな想像力が働くのかと、呆れるばかりだった。 やがて陶然としていた大佐は、にやりと口元を歪めると、天井に向かって言葉を吐いた。 「私は戦線の遥か後方にいてね。戦場に赴く身分ではなかったのだが、よく出ていたよ。 戦場が好きだったのでね…------- 特に気に入ったのは、既に制圧した小さな町で、乾いた地面の上に、おもちゃのような赤レンガでこしらえた家々が、 まるで子どもの積み木遊びのように並んでいてね。 その中央にある白い壁の美しい、この町にはすぎるほどの大きな教会を、私は一目でほれ込み、そこを、被験場所に決めたのだよ。 中は、美しいステンドグラスに彩られ、祭壇中央に佇む石膏の聖母像は、慈愛の表情を張り付かせたまま荘厳に床を見下ろし、この空気の厳かさを完成させていた。 「その神聖なる場所を、血と汚物と排泄部で汚し、我々は尊い実験をこなしていたのだよ」 捕虜を選別し、繰り替えされる人体実験。 聖母に見詰められて、良心の呵責に苛まれるのも初めだけだった。 捕虜、実験、悲鳴、怒号、汚物、そして血液の、赤、赤、赤…。 いつしか聖母像は、ただの石膏像に成り果て、神の存在を完全に見失っていた。 「我々は特殊な部隊でしたよ。何せ、戦場で何を行っても、罪にはならない」 それが、この場にいる人間の、正当性であり、拠り所であった。 何より、建物から一歩出れば、蝿にたかられて真っ黒になった死体、もしくは蛆虫の這いずり回る真っ白な死体ばかりが、街の住人だ。 そんな折に、兵士達は奇妙な噂を耳にする。 ”例の連隊付の軍医が、狂気に憑りつかれて、瀕死者を大量に殺したらしいぜ” 次頁