誰よりも鈍感でありたいと望んだ若き軍医は、総てを戦場に取りこぼして来た。 それは色であり、それは音であり。 己の内側にあった、熱い熱い情を紅い血液と共に滴らせ、若き軍医は鈍感であろうと願っていた。 欠落した碧眼は、同胞への捧げもののように。 まるで、彼らの、墓標であったかのように。 ■8話■ いい加減に見慣れた木のドアを、天才外科医はノックもナシに開けた。 室内は静寂な闇。 器の窓枠から差し込む、夜空の月明りが美しく、仄かに室内を彩っている。 その白いベッドにいたのが、白銀の髪を持つ死神の化身だった。 長い銀糸は、それだけで童話の人物のようだと、勝手に思う。 いや、この男の通り名である”死神の化身”など、夢物語の登場人物そのものだ。 その夢物語は、ハッピーエンドではなさそうだが。 天才外科医は無言で死神に近づいた。 どうせ、寝てはいないだろう。そう思いながら男を見下ろす。 「お前の髪は、もっと灰色に近かったんだってな」 唐突な言葉に、死神は瞠目した。 だがそれは一瞬だけで、すぐにいつもの冷ややかな碧眼に戻る。 「…大佐に聞いたのか?」 「ああ」天才外科医は低い声で「お前が殺した連隊の事もな」 「ふん」 可笑しそうに唇を歪めると、死神は上体を起こしながら静かに口を開く。「…遅いと思ったら、俺を出汁にお友達になっていたってことか」 「惚れていたのか」 「はあ?」 「惚れていたのか」BJは言った。「お前が殺した女を。お前は、惚れた女も殺したのか」 責めるような言葉だったが、彼の紅い眼は僅かにゆがめられていた。 それは痛々しい光を携え、それでも問いの答えを知りたがっている。 それを敏感に感じ取りながら、死神はベッドサイドにある煙草の箱に手を伸ばした。 「レディ・プレジデントは、誰もが憧れた女性だった」 暗闇にライターの火が点る。 紫煙を燻らせながら、死神は淡々と言葉を紡いだ。「あの戦場では、誰もが彼女に恋をするんだ。彼女は部下を愛し、そして守ってくれる。あの醜く、狂気が渦巻く場所でその存在は希望そのものだった」 彼女は、自分をmajor(少佐)ではなく、マム(母)と呼ばせた。 それが極限状態の部下に、どれだけの温かさを与えたか。 「とはいえ、決して”優しい”だとか言う類の女性ではなかったがな」 軍人一家であったと聞いている。 「お前はも、憧れたのか」 「さてね」死神は笑った。口元だけだが「上官としては、尊敬できる人物だった」 「でも、殺したのか」 冷やりと、言葉が鋭さを含む。 まるで刃物ののような危うさであったが、死神は事も無げに「そうだ」と答えた。「俺が、殺した」 「どうして」 「ブラック・ジャック」 煙草を壁で揉み消しながら、死神は隻眼を向けてきた。 暗い碧眼は、まるで黒を一滴落とした青のようだと、思った。 「お前が生きた地獄と、俺が見てきた地獄はまるで違う」 黒を含む碧眼は、暗さを濃くし、更に沈んでいくように見えた。 「お前が幼少時に体験した地獄を、俺は想像するしかない。だが、お前も軍医の体験は想像するしかない」 「何が言いたい」 「俺とお前の地獄は、次元が違う」死神が言った。「だから、お前の価値観と俺の価値観が混ざる日も、分かり合える日も来るはずがない。俺とお前はそもそも立ち位置がまったく違うんだ」 「それは、人殺しの理由にはならないな」 静かな、まるで説得のような言葉に、それでもBJは言葉を振り切った。 次元が違う。 ならば、その次元の上下は誰と誰。 唐突に死神はBJの胸倉を掴んだ。 有無を言わせぬ乱暴な力に、抗う暇もなく、気がつくとBJはベッドに突き飛ばされていた。 「何しやがるッ!」 「お前が悪いよ、先生」 大きな白い手が、BJの喉を握りしめる。 狭まる気道に、必死で抵抗するが、完全に潰される寸前で、手は力を篭めるのをやめていた。 その手を引き剥がそうとするが、上から圧し掛かる死神の存在は圧倒的で、抵抗は瞬く間に封じられる。 油断したと唇を噛み締めるが、すでに事は遅かった。 「触れられたきもねえ過去を、ちゃんと俺は教えただろ」 死神は抑揚のない声で、BJを見下ろす。「だから、代償ぐらいは払わねえとな。せめて、この猛りを沈めるのにつきあいな」 「ふざけるなッ!!」 「ふざけてねえよ」 面倒くさそうに、死神は天才外科医の体に喰らい付いた。 悲鳴をあげる彼の喉に噛み付き、むしゃぶり犯す。 欠落した左目が、鈍く、鈍く疼いて、凶暴化しそうだった。 戦場に置いてきた、左目。 それなのに、欠落した筈のそれは、何年経っても、鈍く疼く。 ファントムペイン---幻肢痛だ。 酒に溺れても、鎮痛剤を使っても、時には麻薬を打っても、その鈍い痛みは消えることがない。 左目は、失明する瞬間をいつまでも伝えてくる。 欠落した左目は、戦場に置いてきたのに。 レディ・プレジデントが撃たれたという兵士の言葉に、誰もがそこに集まった。 いや、集まるしかなかった。 夜襲の恐怖と疲労に押しつぶされそうな兵士は、マムの負傷に動揺が隠せなかった。 それは指導者を失う恐怖。 それは守護者を失う恐怖。 連隊は最早、その任務遂行を停止させ、救援をまつだけしかできなかった。 生き残った数十人を、必死で医療班は手当てする。 だが医療班自体がすでに機能を失い、その必死さに関わらず、努力は徒労に終わってゆく。 隣で呻いていた男は、目を離した隙に動かなくなり、その隣の男は、次は自分の番であろうかと、恐怖する。 命は虫けらよりも軽く失われ、虚しい処置に、看護士が泣き出しながら、手を動かしていた。 夜になっても、救援は来なかった。 「…ドクター…」 「なんです、マム」 医療テントの隅、他の人間から離れたベッドで、レディ・プレジデントは治療を受けていた。 彼女は希望なのだ、死なすわけにはいかない。 だが 「…もう、いい」彼女は気丈にも、言葉を突きつけてきた。「ドクター、私は助からないのだろう。なら、積極的な治療はいらない…他のものにまわしてくれ」 「貴方は、希望です、マム」きっぱりと、告げた。「貴方が死ねば、皆、落胆して生きる術を失います」 「救援が来ることが、皆の希望になる。命令だ」 「認められません」 「頑固だな、ジョルジュ」 小さく彼女は笑ってみせた。 それは、まるで普通の笑い話を紡ぐような笑みだった。 「お前、ファーストネームは、なんだった」 「…キリコです」 「そうか、キリコ」彼女は言った。「…お前のような男が、何故、戦場にいるんだ…お前なら…本国で医者をし、女性と出会い…結婚したほうが似合いだというのに……」 言葉の内容に関わらず、それは、それは優しい声色だった。 だからか。 「…金が、なかったのです」 思わず、本音が零れ出る。誰にも語ったことのない、事実を。「私の家は貧しい牧場です。医者になりたくとも、そんな大金はなかった…そして、せめて妹の学費を送金したかったのです」 「…そうか…やはり、優しいな…」 彼女の白い指が、左頬に触れる。 細かく震えるその手は、腕をあげる力が最早ないからなのか、それとも。 「すまない」 指が頬に触れ、そして遠慮がちに閉じられた瞼へと触れる。 永遠に開くことのない、左の瞼に。 「医療班のお前に負傷させ、銃まで握らせてしまった…」 「…マム、私は軍医です」 贖罪する彼女の指を掴み、静かに下ろさせた。「同胞の命を守る…それが軍医の使命です」 「…そうか…」 消え入りそうな声で彼女は呟くと、静かに若草色の瞳を閉じ、そして、口を開いた。 「銃と…タオルを…くれないか」 「何を、考えているのです」 「私は軍人だ。死に損ないが、物資の無駄な消費をするわけにはいかない」 「あなたは、隊には必要な方です」 「いや、私はすでに用済みだ」冷静な声だった。「キリコ、頼む…銃とタオルを渡し、一人にしてくれ…」 「…駄目です」 「命令だ」 「承服しかねます」 「…キリコ…」 彼女は困ったような、泣き出しそうな顔で、それでも微笑んで見せた。「強情な医者だな…なあ、本来なら私のような重傷者は放置される筈だろう」 「………。」 「これ以上、苦しみたくない…早く、終わらせたいんだ…」 静かに告げる言葉は、本音なのか、それとも違うのか。 だが、それが、本当のように思えてきた。 彼女へ投与した鎮痛剤は、ほとんど効き目がない。 その激痛と死の恐怖を終わらせたいと思うのは、仕方がないとは思わないか。 「私が、しましょう」 「キリコ?」 「私が施します」 はっきりと、告げる。迷いなく、当然のように。 「私が貴方の命を摘み取りましょう。マム、私は貴方の死神になります」 次頁