「駄目だ、上官命令だ」
 睨むように告げる言葉は、怖いぐらいに迫力があった。
 だが。
 左大腿の患部は黒く硬くなり、もうすぐ壊死を起こすだろう。
 下腹部の爛れた火傷痕も手の施しようがなく、左上腕のの複雑骨折も整復不可能だった。
 大の男ですら激痛に絶叫するであろう負傷であるのに、レディ・プレジデントは呻き声すら漏らさない。
 だが。
 食いしばった歯が折れ、その唇から鮮血が溢れた時、静かに彼女は告げた。
「…モルヒネなど……いらん……他の奴に……使え…」
 息も絶え絶えの、声だった。 
 






■9話■
  





 処置室に運ばれた11人目の被験者を見て、BJは絶句した。
 黒い肌に縮れた黒髪。苦しげに眉根を寄せる彼は、明らかに10歳にも満たない子どもであった。
 腕はパンパン腫れ上がり、まるで無理やり空気でも詰め込んだ風船のように、肌が今にも破れそう。
 シャツを捲れば、その両腕からは想像ができぬほど、痩せこけた体。深く沈んだ下腹部にくっきりと皮膚を通して形の見える肋骨。そして何より、その黒い肌は痛々しい水疱で覆われていたのだ。
 明らかに、例の薬物の症状を一気に凝縮させたような、体だった。
「…痛い…痛い…」
 繰り返し唱える言葉に、BJは唇を噛み締める。
 今まで試みた治療法、考えていた処置方法を総て試し、そして後は自分の腕と経験則と勘に頼った。
 だが少年は、数時間後に、病理解剖へと回された。
 そうして、どれだけの命が紙のように破かれたか。
 軽い眩暈を覚えながら、BJは術衣を脱ぎ捨てて、廊下へと座り込む。
 無力なんてものではない。
 この建物での、自分の小さな力は、誰一人救えはしない。
 ならば、何故、自分はここにいるのだった。
 
 少年の命を取りこぼしてまで、一体、何を惜しむというのだ。

「お疲れですか、ドクター」
 不意に、目の前の床に黒い革靴が現れ、言葉が降ってくる。
 顔をあげるまでもない。
「充分な休養をおとりください、ドクター」
「何故、子どもにまで、こんなことを」
 スミスの言葉を遮るように、BJは声を吐き出す。「子どもを犠牲にしてまで、何を得ようと言うんです」
 静かだが、激情を含んだ声だった。
 その滾る怒りのようなそれに、スミスは「ああ」と小さく声を漏らした。「スポンサーの提案でしてね。
データは残酷であるほど、商品価値は高くなる。非人情的なこのデータは、恐らく、スポンサーも納得してくれる」
「まだいるのか、子どもの被験者は」
「ええ」スミスは言った。「スポンサーがスラム街から買ってきた子どもが、あと24人いますよ」
「…そうですか」
 噛み締めるように、BJは答える。握る拳が細かく震えていることに、スミスは気づいていただろうか。
「ですから、充分な休養を、ドクター」
 もう一度。同じ言葉をスミスは繰り返した。
 今度は無言で、BJは彼を一瞥すると、立ち上がり廊下を歩き出していた。
 その背中を、スミスは興味深そうに眺めていた。
「大佐」
「なんだ」
 呼ばれて、スミスは振り返る。制服を着た若い兵士が敬礼をしていた。「大佐にお電話が入っております」
「すぐに行く」 
 腕時計をちらりと確認し、スミスは口元を大きく嬉しそうに歪めると、BJとは反対方向へ歩き出していた。





 白衣を脱ぎ捨て、死神は煙草を咥えた。
 自分の唾液は、血の味しかしない。
 小さく息を吸い、そして咥えた煙草に火を灯した。
 眼を閉じれば、聞こえて来る悲鳴、絶叫。暗闇は恐怖に歪む人間が潜み、呪いの言葉を吐きながら息絶える。
 だが、それらはまだ耐えられた。
 耐えられないと思うのは、子どもの泣き声と悲鳴だ。
 親に現金と引き換えに買われて来た子どもたちの、絶望に満ちた叫び声。
 戦場でも散々聞いたはずだが、慣れることはないのか。
 ならば、いっそ、この耳朶を引きちぎり、鼓膜を突き破ってしまえば良いのだろうか。
 そんな事を考えていた時だった。
 ばあん。と荒々しくドアが開かれたかと思うと、ズカズカと音を立てて男が入室してきた。
 BJだった。黒い髪を振り乱し、紅い眼はぎらぎらと鋭い輝きを称えて、濡れた血液のよう。
「キリコ」低い声で、BJは口を開く。「この建物を俺は破壊する。お前は俺の指示に従え」
「へえ」
 唐突な発言に、死神は口を皮肉に歪めて笑って見せた。「いきなり、物騒なことを言うねえ」
「黙れ、死神。貴様が言って良いのは”I see”だけだ」
「断れば?」
 ニヤニヤと小馬鹿にするような笑顔の前で、BJは拳銃を抜いた。
 そして、その銃口を自分の右頬に押し付ける。
 死神の表情が、僅かに強張った。
「断れば、引き金をひくさ」BJは笑った。「どうする、死神。目の前で俺が死ぬのを、お前は見たいか」
「…ああ、見物だな」
「…そうか…」
 BJはその瞼を閉じた。そして、迷う事無く、その引き金を引いた。
 銃声が、室内に鳴り響く。







 
「…モルヒネなど……いらん……他の奴に……使え…」
 食いしばった歯が折れ、その唇から鮮血が溢れた時、静かに彼女は、そう告げた。
 息も絶え絶えの、声だった。   
 もう長くはない、少なくとも、本国へ帰り着く途中で、恐らく彼女の命の灯は消える。
 それまで、彼女は苦しみ続けるのか。
 あと、どれほど苦しませなければ、ならないのだろう。
 ”いつ、楽になる?”
 物資不足から麻酔すら投与できない重傷者から、幾度となく尋ねられた。
 苦痛からの開放を願ってやまない同胞は、苦しみながら死んでいった。
 そして今、何故この人までが、苦しんで死ななければならないのだ。
「…気に病…むな…キリコ…」
 息も絶え絶えなのに、彼女の声ははっきりと聞こえる。「我々軍人が…マトモに死ねるとは…思ってはい、ない…」
「いいえ」
「こ…れは、贖罪だ…」彼女は笑った。「…戦場とはいえ…人を、殺し続けた…軍人の…宿命なんだよ」
「いいえ、私は、認めません」
「キリコ」
「私は医者だ」震える手で、その注射器を手にしていた。「苦痛からの開放も、医師の役目です」
「キリコ」
 彼女の眼が歪んで見えた。細めた瞳にある感情を読み取ることが、できなかった。
「申し訳ありません。俺は、未熟な俺は、こんな方法しか、最早、思いつきません」
 震える手で持つ注射器は、幾人もの血を吸っていた。火で炙り、何度も使用する。
 物資は不足していた。
 苦痛からの開放…それは、なるべく早くという意味で、であった。
 できるのなら、穏やかな開放を。
 緩やかで安らかに、眠るような開放を与えてやりたいと思った。
 だが、物資の不足する現状から、その安楽なる開放を叶えてやれる薬液…麻薬の類は、使用するわけにはいかなかった。
 苦しみながらの死。同じ苦しみなら、助けることの出来ぬ愚かな医師である己が早めてやろうと。
 そして、それらを背負い、忘れぬように。
 見殺しではなく、自らの手で、死を早めよう。 
「…ありがとう…キリコ…」
 カリウムを静脈に注入した。
 そして、その血まみれの手をそっと握る。
 助けることのができぬから、自らが与えた死を、看取るために。
 見殺しではなく、背中越しでもなく、自分が与える死を正面から、見届けるために。 















 硝煙のたなびく銃が、天井に向けられていた。
 銃弾は、天井に突き刺さり、小さな穴を開けている。
 手首を掴まれたBJは小さく笑って「契約成立か?」
 それは凶悪な笑みだった。この男は、こうして止めなければ、本気で自分の頭を撃ち抜く気でいたのだ。
 だが、止めぬ筈がないという、確信を持っていたに違いない。
 忌々しい、天才だ。
「…ああ、わかった」
 仕方がなさそうに、死神は答えるしかなかった。
 


 
 











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