確かに、研究は一段落した。だから、明日からは他のアプローチとかを考えていた。
 そうだ。論文をわざわざ送ってくれたMITの教授に、挨拶に行かなければ。
 それに、それと、それから。
「明日から、一週間ほど旅行だってね、ハザマくん」
「…は?」
研究室のハンバート教授の言葉に、間 影三は「何のことです?」
「ジョルジュくんと旅行だろ?」と、ハンバート。「いいいねえ。君は研究の虫だから、
たまには母国でのんびりと過ごしてきたまえ」
「…ジョルジュと…旅行…?一週間?」
聞いてない。聞かされていない。と、いうよりも、この状況はつまり
----謀られた!!!




『ぶらり温泉二人旅〜運命の悪戯編』




 外堀から埋めていくとは、段段手段が巧妙になっていくような気がする。
「そうでもしないと、君と旅行は無理だろう」
機内でムクレる東洋人に、エドワード・ジョルジュはご機嫌だ。
「私は、君が一段落するまで、ちゃんと待ったよ」
「当然です!」
じろり。と不機嫌な顔で、彼はジョルジュを睨みつけた。
「俺に何も聞かずに!俺にだってちゃんと予定があったんですよ」
「へえ、どんな?」
「…明日はMITに行ってこようかと…」
「それは、いつでもできるだろう」と、ジョルジュ。「私は今日、この日のために、
残務整理を終えてきたんだ。大体、影三がなかなか予定を空けてくれないから、こんなことに」
「…それは、まあ…そうですけど」
ぼそぼそと影三は答えた。
そう、元はといえば、この旅行は半年以上前に影三が言い出したことだった。
『温泉』に入ったことのないジョルジュに、温泉に入りに行きましょう!と言ったのは、影三だ。
それに、ジョルジュは影三と違って、教授の助手。そして、所属する研究室も応用微生物学、
生き物を扱う研究であるから、先に予定を立てないとお話にはならない。
分かってはいる、が。こちらにも心の準備とゆうものもさせて欲しい。
「…行きたくなかったかな」
ぽつりとジョルジュが呟いた。
その言葉の色に、影三は思わず彼を見る。
「強引だったかな」
笑ってはいたが、微かに寂しげな表情。それは影三でなければ気づかないような。
「…いえ…」
その、彼の言葉を否定した。「…言い出したのは俺ですから…ありがとうございます」
行きたくなかったわけじゃない。強引なのは確かだけど。
「よかった」
微笑む彼の表情は、綺麗だと思う。
灰銀の髪に見え隠れする、優しいその碧眼が、とてもとても柔らかで。
「モテる訳だ」
「え?なに?」
「いえ、別に」
 先程配られたブランケットを首まで覆い、影三は瞳を閉じた。「俺、寝ます」
「ああ、お休み」
くしゃりと、ジョルジュは彼の黒い頭を撫でた。
そういう甘い仕草をされれば、女性などすぐに恋に落ちるだろうな、と、瞳を閉じながら
影三は考える。だが生憎、自分はそうではない。
彼のその優しさに救われることは何度かあったが、それでも、それは恋ではない。
それでも構わないと、彼は言うのだ。
不思議な人だ。優しい人だ。
考えているうちに、万年寝不足のせいか、意識が闇に紛れて、やがて眠りに落ちる。
小さな寝息を立て始めたのを見て、ジョルジュはそっ…と彼の手の甲に自分の手を重ねた。
温かい、彼の手。
今だけでも、彼に触れていても構わないだろうか。
彼の安らかな寝息を聞きながら、彼の温かな手の温もりを感じながら、ジョルジュは小さく願う。
今だけ、今だけ君に触れていても、構わないだろうか…。



 一体、何を基準にその地を選んだのか。
 成田空港についてから乗り換えて飛び立ち、辿り付いたのは、日本海側の北陸の地。
 関東地方出身で少年時代に渡米した影三にも、その地は初めてであった。
「……寒い……」
雪こそ降ってはいないが、寒がりな影三は外にでるなり呟いた。
地方の空港だけに、成田空港とは違って人の数は激減。
ローカルな小さな空港という印象を受ける。
「んで、どーするんですか」
「えっとねえ」
手帳を捲りながら、ジョルジュは「とりあえず、路線バスに乗ろう。K沢駅行き」
「K沢駅行きですね…」
頭上を見上げると、バスターミナルの標識が見えた。
それに従って行くと、バスがたくさん止まっているところにたどり着く。
バスの前方に表示されている行き先に、"K沢駅直行"という漢字が見えた。
たぶん、あれだと思う。自信は実はないが。
「あの、オレンジの線の入ったバスだと思います」
指差すと、ジョルジュが「アレがK沢駅行きって書いてある?」
「ええ」
「だ、そうです」
 いつの間にか、ジョルジュの背後には白人が5,6人いて「おお!」と歓声をあげていた。
つまり彼らも漢字が読めないので、バスを探していたのだろう。
「影三のお陰で助かったよ」
「…俺も自信ないですよ」
バスの座席に座りながら、正直なところを告げる。
10歳前後まで日本で暮らしていた影三は、父親の死をきっかけに母と渡米した。
その為、一応日本語も話せるし、書けるが、漢字に至っては自信がない。
簡単な漢字や医療用語等は分かるが、地名や熟語などはさっぱりだ。
 窓から見える風景は、一面の水田。
 刈り入れも終わり、今は水も張られていない状態だが、懐かしいと思う。
「影三は」不意にジョルジュが話し掛けてきた。「もう何年も帰国してないのかい」
「…そうですね…メディに進んでからは」
曖昧に影三は答えた。
渡米して、母はすぐに亡くなった。母方の祖父母が影三を育ててくれたのだ。
祖母は日系人で、日本料理や日本の風習で自分を育ててくれた。
年に数回、祖父母は日本へ連れて行ってくれて、父の墓参りをさせてくれた。
だがそれも、祖父母が亡くなってからは、行っていない。
 だから、日本へ来たのは本当に数年ぶりだった。
 もしかしたら。
 ふと、影三は思い当たる。
 ジョルジュがわざわざ日本海側を選んだのは、自分に配慮してのことだろうか。
関東圏にだって、温泉地はたくさんある。だが、わざわざこちらを選んでみせたのは。
「それにしても」
窓をちらりと見てから、ジョルジュは関心したように笑う。「ちゃんと時間どおりに運行するんだねえ
さすが日本人は時間に几帳面だなあ」
「まあ、そうですね」
つられて、影三も笑った。

 一時間ほど経った頃だったように思う。
斜め後ろの席に座る女性の息が、少しずつ荒くなっていた。
「大丈夫?」
連れと思われる男性が、心配そうに尋ねる。
彼女は「大丈夫」と笑って見せた。
 窺うように影三が、その女性の顔を見て、パッと立ち上がった。
 そしてすぐにその女性の傍へゆく。
「胸の痛みは」影三が訊ねた。「失礼ですが、循環器系の持病があるんですか」
「お医者さんですか?」
連れの男性が答える。とても安堵したように。
「…まあ、そんなもんです」
曖昧に答える。影三は院生でインターンシップを受けて一応医師免許はあるが
それでも厳密には、医師とは言えない。臨床医は更に数年の病院実習を行っている。
「医者はアレです」
と、影三はジョルジュを指差した。
「…胸の痛みは…ないです」
笑いながら、女性は答える。「ちょっと疲れただけなので…本当に大丈夫ですから」
「脈だけ計らせて下さい」
影三は女性の細い手首をとった。
「!」
「…!」
その手が互いに強張る。
女性は、息を詰めて影三を見つめた。
「……心臓…弁膜症…ですか」
ゆっくりと告げる影三の言葉に、女性は「はい」と答えた。
「分かるんですか?」
「ええ」と、影三。「大…動脈弁閉鎖…不全症…先天ですか」
「いえ、最近…分かったんです」
「そうですか」
静かに、影三は手を離した。「手術前にあまり無理はしない方がいいですよ。
胸の痛みが出たら、すぐに受診して下さい」
「ありがとうございます」
小さく女性は頭を下げた。
じゃあ、と影三は席へと戻っていく。
その姿を、女性は静かに見つめていた。
「…香澄?」
男性が声をかける。不安そうに、心配そうに「本当に、大丈夫か?」
「うん」
香澄は答えた。そして、男性の方を向きにっこりと笑う。「ごめんね、恭ちゃん」
「いや、俺は…オロオロしてただけだから…」
「あの人…」呟くように、言った。「あの人、私に似てる…よく似てるよ」
「見えたのか」
「うん」
 手首をとられた瞬間に僅かに弾けた、ビジョン。
 彼は、私とよく似ていた。
 とても、よく似ていたのだ。


「ナンパでもしに行ったのかと思ったよ」
席に戻ってきた影三に、ジョルジュは言った。「彼女、心臓?」
「…ええ、まあ」
彼女の手首をとったとき、拍動が呼吸とが一緒だった。爪を軽く押さえると、
やはり脈拍に合わせて、赤くなったり白くなったりを繰り返す。
それは、その病気を判断する簡単な診断方法だった。
いや、それよりも、あの時。
彼女の手首をとった時に感じた、不思議な感覚。
何かに触れられたような。
何かが弾けたような。
気のせいで片付けるには、あまりに鮮烈な感覚だった。
あれは、一体、なんだったのか。
「…可愛い子…だったね」
ぽつりと呟く言葉に、影三は顔をあげた。
優しく微笑むジョルジュの顔は、いつものそれではないことに気付く。
少し、ほんの少し、その碧眼が揺れているのが分かった。
「別に、好みのタイプってわけじゃ、ないですよ」
「そうなのかい?」
「そりゃ…白人よりは…ですけど」
ぽつりと、影三は言う。
「そうか」と、ジョルジュ。「てっきり、彼女みたいな可愛い子が、影三の
好みのタイプなんだと思ったよ」
「エドは美人が好きですよね」
意地悪く告げる彼の言葉に、ジョルジュは言葉に一瞬だけ詰まり
「別に、私は美人が好きというわけじゃ…」
「そうでした」と、影三。「エドはモテるから、特に選ばない。でしたっけ」
思わぬ言葉に「うっ」と、ジョルジュはそれこそ言葉に詰まった。
今年、大学の研究室に引き抜かれてきた麗しい助教授は、ジョルジュの以前の交際相手だったのだ。
その彼女から聞いた、彼の学生時代の交際歴。
とっかえひっかえ…とまではいかないが、告白されれば断った事がなかったという。
「いや、あれはだね…その、あんまり恋愛に関しては興味がなかったから…というか…」
シドロモドロで弁明する彼がおかしくて、影三は小さく笑いながら
「別に責めている訳じゃないですよ」と、答える。「誰だって、過去に交際歴があったところで
さほど驚きはしませんよ」
「え…」ジョルジュは目をぱちくりとさせ「影三…にも、もしかして…あるのかい?」
「俺は24ですよ。交際経験ぐらい…て、まさか、俺は経験がないって思ってたんですか!」
「あ、いや、そおだよなあ」
見事な棒読み。そして図星。
「い、つ?いつ頃なんだい?」
「…高校生の時ですが……エド、顔色悪いですよ」
「…酔ったかな、車に」
「大丈夫ですか」
 覗きこむ彼の顔を見て、反射的に抱き締めたくなったが、慌てて理性を総動員させる。
 いや、確かに、過去の交際歴など現在は関係ない。
 関係ないのだが。だが、しかし、
「影三」努めて冷静に尋ねる。「その、相手は女性…なのかな」
「当然です」と、影三。「同級生ですが……まあ、あんまりいい思い出は…」
ないですね。彼はそう呟いて、あまり言いたくはなさそうだった。
「そうか、悪かった」
ジョルジュは席に座りなおして、手帳を開いた。
「このままK沢駅まで行ったら、今度は電車に乗ってM本駅へ行く。そこからはタクシーだ」
「随分、遠いんですね」
「秘湯らしいよ」
「秘湯か…楽しみですね」
ホクホクと喜ぶ彼の笑顔が、とても愛しいと思った。
そして、思っていたよりも独占欲が強い自分に驚いた。
君は、どんな女性とつきあっていたの。どんな会話を交わして、そして…。
聞きたいけど、聞きたくない。
知りたいけど、知りたくない。
私は君の恋人ではないけれど、でも、君の過去の交際相手が気になるんだ。
他の誰でも気にはならない。
だけど、君のことは。
君のことだけは。
君の過去の記憶に焼きつく、その特別な相手が、気になるんだ。

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