そこは市内中心部から離れた、山沿いにある温泉だった。 この市には他にも4箇所ほど温泉がある。 そのうち2箇所は、全国的にも有名で、規模も大きい。 この場所の温泉は、いわば『知る人ぞ知る』温泉であり、ガイドブックにも、小さく、 数行しか掲載されていなかった。だがその歴史は深く、天正年間に発見され、 この地の時の藩主も利用したと伝えられている。 だからこそ、ジョルジュはここを選んだのだ。 山沿いにあるその秘湯は、宿が数件しかないが、県境にあるということで、歴史を背負う宿ばかりだった。 木造の大きな造りの玄関に立つと、この島国の歴史の重みを感じられる。 「ようこそ、おいでくださいました」 臙脂色の着物を着こなした女性が、入り口で丁寧に頭を下げる。 その立ち振る舞いは、美しく洗練されたものだった。 「…幾らしたんですか」 部屋に案内され、思わず影三は本音を口にした。 当然だが畳の部屋。それも純和風の10畳ほどの和室に、奥には8畳程の和室。 その8畳の和室に面する大きな窓は、部屋専用の露天風呂へと続いていた。 10畳ほどの和室からは、美しい日本庭園が望むことができる。 そして、何気なく置かれている調度品、建具に至るまで、どうみても歴史を刻んだものたちばかりだった。 「ま、そんなことは気にしない、気にしない」 畳の上に腰をおろして、ジョルジュはニコニコと見上げていた。 それは本当に嬉しそうだったので、影三もテーブルの向かいに腰を下ろす。 手持ちぶさたなので、とりあえず急須にお茶葉をいれ、お茶を煎れた。 おお。とジョルジュが歓声を上げる。「それは、お茶かい?」 「日本茶でしょう」 と、影三。まさか、紅茶ではないと思うが。「薄めに煎れましたが、渋いかもしれませんよ」 急須からのお茶の煎れ方は、祖母からみっちり教わった。 白人である祖父は、あまりこの日本のお茶は好みではなかったな、と思い出す。 「うん、美味しいよ」 半分ほど飲んで、ジョルジュは笑って言った。「影三は煎れるのが上手だな」 「適当ですよ」 「さて、浴衣に着替えなくちゃ!」 …ジョルジュの発言に、影三は飲んでいたお茶を力一杯噴出した。 「……っ…なんだって?」 「いや、だって」と、ジョルジュ。「旅館は浴衣が正装だろう?」 「正装…てわけじゃ…」 サイズが合わないんじゃ…と思ったのが分かったのか、ジョルジュは得意げに 「予約する時に、ちゃんとサイズ指定したから、大丈夫!」 「………。」 用意されている浴衣を見た。 浴衣を包む半紙に『男性用』と書かれたものと、もう一つは『外人用』。 確かに、ちゃんと用意されている。 だが、しかし。 「…エドは、浴衣を着たことあるんですか?」 「ないよ」即答。「…浴衣って、このまま羽織ればいいのかな?」 「ガウンじゃないんですから…洋服と一緒ですよ。下は、下着」 「へえ〜」 感心したように浴衣を羽織、やはりというか、当然というか、バスローブのように無造作に前を合わせて、 これもまた適当に帯を締める。初めて着るものなのだから、当然といえば当然なのだが…。 「これで、いいかな?」 「いいわけないでしょう!!」 とうとう我慢出来ずに、影三は立ち上がって「浴衣にはちゃんと着方があるんですよ!!」 「あ、そうなのかい?」 まったく…とぶつぶつ言いながら、影三は「両腕を横に伸ばしてください!」 「こうかい?」 言われたとおりに、ジョルジュは両腕を横に伸ばした。 適当に締められた帯を解いて、浴衣の袖を引いた。 「腕を斜めに、軽く下ろして下さい」 左みごろを合わせ、下前と入れ替えて、腰下を身体に沿うように巻きつけ、 そして、上前の左身ごろを重ねて引いた。 「これを持っていて下さい」 左身ごろをジョルジュに持たせ、影三は帯を腰骨あたりに手早く巻きつけて結びつける。 最後に衿を整えて、完成だ。 「出来上がりです」 「おお!すごい!!」 鏡を覗き込んで、ジョルジュはマジマジと見入っていた。 実は着付けも祖母に仕込まれていたのだが、実に十数年ぶりの着付けだったのだが、 案外覚えているものだと、影三は内心思う。 それにしても、日本人以外の人種は着物は似合わないと聞いたことがあるが、何故にどうして、 丁度いい丈ということもあり、ジョルジュの浴衣姿は、なかなか様になっていた。 いや、悔しさを自覚して言うならば、影三からみてもカッコイイと思う。 「ありがとう、影三」 「…いえ…」 「影三も着たら、温泉に行こう!」 「…いや、俺はいいですよ」 冗談じゃない。この寒いのに浴衣で館内をウロウロしたくはなかった。それと、こんなにも カッコよく着こなしているジョルジュと一緒に浴衣を着る度胸はない。 「じゃあ、影三は浴衣を着ないのかい?」 「いや、さすがに寝るときぐらいは…」 あまりにガッカリしてみせるので、つい言ってしまった。 まあ、寝るときぐらいはいいか。 温泉は大浴場と呼ぶには、少し小さめの湯船ではあったが、温泉初心者(?)であるジョルジュには 充分驚きの広さではあったようだ。 湯船に面する大きな窓ガラスから望めるのは、美しい日本庭園。 「へえええ」 驚くカナダ人の手を引き「先ずはかけ湯をして下さい」と、影三は洗面器を渡す。 「かけゆ?」 「入浴前に、軽く身体を洗い流すんです。皆で入る風呂ですからね」 「へええええ」 感嘆の声の連続に、影三は思わず吹き出した。 「エド、素直すぎ…」 「いやあ、文化の違いは面白いねえ」 かけ湯をして軽く身体を流し、そして湯船に浸かる。 色はコーヒーのような茶色のお湯で、トロリとしている。 「泉質は含重曹硫黄泉らしいよ」と、ジョルジュ。「効能は、痔 慢性皮膚病 冷え性 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき 慢性消火器病 病後回復期 疲労回復 健康増進 きりきず やけど」 「…よく覚えましたね」 指折り数えて述べるジョルジュをみて、感心したように影三は言った。 「そりゃあ、リサーチはバッチリだよ」 笑って答える彼。本当にこの旅行を楽しみにしていたんだな、と思うと、なんだか申し訳なかった。 自分など、自分で言っておきながら、すっかり忘れていたというのに。 「それにしても」 湯を掬いながら、ジョルジュは不思議そうに「不思議だね、このお湯は源泉からそのままのものだと 載っていたけど…こんな色のお湯が沸くなんて」 「だから、面白いんですよ」 「通りで色んな入浴剤があるわけだ」 浸かる温泉は心地よく、まるで心まで解れていくようだった。 日本人である彼が、入浴好きというのも、なんとなく分かるような気がした。 「影三は」ぽつりとジョルジュは呟いた。「日本に戻る気はないのかい?そのまま研究室に残るのか?」 「へ?」 唐突な言葉に、影三は一瞬、言葉をなくし、そして「…そーですねえ…」と思案顔。 その思案顔を眺めながら、言葉を待つ。彼の、言葉を。 「日本に戻る気は…ないですね」 言葉を選びながら、影三は言った。「待っている人間がいるわけではないし、きっかけもないですし… 今の所は、研究室に残りたいのが本音ですが」 「私ならいつでも待ってるよ」 さらりと告げる言葉に、影三は不覚にも頬を真っ赤に染めた。「だから!俺はですね!!」 「分かってるさ」 柔らかな眼差し。告げられる言葉。ジョルジュはやはり綺麗に微笑んでいた。 「旅行につきあってくれて、ありがとう、影三」 それは、それは、本当に優しげな声。 まるで彼の優しさそのもののような、美しさだった。 が、 「身体を洗ってあげるよ!」 嬉々としてボディスポンジを握るジョルジュに 「自分で洗いますから!」と、叫ぶ影三。 「だって、背中の流し合いは日本人の大切なコミュニケーションだって…」 「それは幼少期の話です!!」 「いいじゃないか!背中を洗ってあげるよ!」 「結構です!!」 他に客がいないことをいい事に、ボディスポンジの奪い合い。 体格差から言えば、当然、ジョルジュの方が有利だ。 「背中!背中だけですよ!!」 「え〜」 「『え〜』じゃない!!」 「足とかも洗ってあげるのに」 「いりません!」 「なにもしないよ」 「当然です!!」 されてたまるか!!と思わず本音が口にからでる。だが、ボディスポンジを片手に持つ彼は、 それはそれは嬉しそうに、がし!と影三の肩を掴む。 「準備はいいかい?」 「背中洗うのに、なんの準備がいるんですか!」 「いや、心の準備とか」 「だから!なんで背中を洗われるのに、心の準備がいるんです!!」 「影三」 「なんですか!」 「この場合、背中は尾椎までだよね」 飄々とした言葉に、血の気が、ざあと引いていく。「なんでですか!!普通『背中』って言ったら、 胸椎まででしょう!!」 「いや、脊椎全部だろう」 「腰髄からの運動機能レベルは、股関節になるじゃないですか!!」 「細かいな」 「一般的な事を言っているんです!!」 ぎゃあぎゃあ喚くちょっと迷惑な客になりかかってきた頃、がらりと他の客が入ってきた。 勿論、ここは温泉なのだからそれはおかしなことではないが、 ただ、ボディスポンジを取り合う男性二人の光景を見て、その男性客はギョッとしたように 立ち止まる。 「Don't worry.」 影三の頭を押さえつけながら(笑)にこやかにカナダ人は優雅に手を振った。 「ふ、ざ、け、る、な!!」 怒り心頭。顔を真っ赤にさせながら叫ぶ日本人を見て、男性客は「あ」と声をあげた。 「…もしかして…バスの…」 「え?」 思いがけない言葉に、マジマジと男性客を見る。 それは確かに、路線バスで心臓疾患の女性といた連れの男だった。 次頁