「…寒そう…」 車窓を眺めながら、思わずといった面持ちで呟かれた日本人の言葉に、ジョルジュは深くため息を落とした。 「『寒そう』じゃなくて、実際寒いんだよ」 「いえ、それには及ばない」 ジョルジュの言葉を遮り、紳士は優雅な笑みを深めながら口を開いた。 「外見は中世の造りではありますが、内部はちゃんと作り変えている。 未曾有の天才である君の体調を崩す懸念は、欠片もないよ」 だから、君は用無しだ。 暗に告げる紳士の視線。 「それはまた、豪勢ですねえ」 飄々と答えるジョルジュのいつもの言葉。 だが、その灰銀の髪から見え隠れする碧眼は、紳士の視線を受けるように、笑ってはいない。 事の起こりは、エドワード・ジョルジュが海外の学会へ出張するという所からはじまった。 場所は英国のロンドン。 英国屈指の大学への出張に、珍しくついて行きたいと主張する院生がいた。 それが、間 影三である。 勿論、その申し出を断る理由など、ジョルジュにはない。 かくして、英国への楽しい研究旅行になるはずだった。 それが狂ったのは、紳士の出現。 幾つもの会社を経営する彼は、公爵とか呼ばれる貴族の末裔であり、 英国医学分野での、研究への出資者としても有名だった。 そんな男である。既に人工臓器学会では未曾有の天才と呼ばれている影三に、 興味がないわけがない。別に影三が来ることを宣伝していたわけでもないのに、 彼はすぐに声をかけてきた。 それも直接本人ではなく、ジョルジュへ、だ。 「未曾有の天才と呼ばれる彼が、こんなにもキュートだとは思わなかったよ」 と。 その言葉を聞いた後、ジョルジュは嫌な噂を聞いた。 この紳士は、無類の男色家だ、と。 別に、人の事を噂で差別するつもりはない。 だがしかし、わざわざ自分にそんな言葉をかけてきた彼に、嫌悪感を抱いたのは確かだ。 人間的にも食えない人物だろう、という判断は恐らく間違ってはいない。 そんな人物に、影三を触れさせたくはなかった。 彼は純粋に勉強の為に来たのだから。 だが、敵もさるもので、金持ちのリサーチ能力は大したものだと、感心せざるえない。 学会最終日。 紳士は、それこそにこやかな笑顔で影三に近づき、自分の持つ人工臓器の開発研究施設への見学案内を申し出たのだ。 躊躇する影三に、紳士はもう一つダメ押しをした。 「私の屋敷には女性ゲスト用のスパがあります、今はシーズンではないので、男性でも入浴できるのですよ どうせなら、一週間ほど私の屋敷に宿泊し、じっくりと見学なさっては?」 この言葉に、未曾有の天才の心は大きく傾いた。 「…影三…私は今日中に戻らないと、細菌が死んでしまうのだが」 「だったら」紳士は笑みを深めて「ハザマくんだけでもよろしいでしょう?ドクターは無理をなさらなくても」 深める笑み。だがその瞳は少しも笑っていない。 そんな男の所に、彼を一人置いて行ってなるものか、とジョルジュはすぐさま大学に電話をし、一週間の休暇をもぎとった。 かくして、スパを楽しみにする未曾有の天才。 反して、英国紳士と灰銀の研究医の静かな戦いが、車中で繰り広げられることとなったのである。 ****** そこは城と呼んでもおかしくはない建物だった。 石造りの屋敷は、外観だけをみれば中世のイメージそのままである。 だが内部設備は車中で紳士が話したように、近代的なものに作り変えられ、快適そのものではあった。 それなのに。 「残念ですね、これではスパは無理ですよ」 体温計を眺めながら、影三は告げた。 手元の電子体温計の小さな液晶には、38.80という数字が表示されている。 「…これぐらい、大丈夫だよ…」 ソファーから立ち上がろうとすると、影三は慌てて体を押さえつけた。 「駄目ですよ。とりあえず、寝てください!」 「………」 頭が痛いと思ったら、まさかの発熱。 あの紳士の勝ち誇った高笑いが聞こえてきそうだった。 まるで、あの紳士に気合負けしたかのようで、気分が悪かった。 「じゃあ、俺、スパに行ってきますから」 子どものように浮き足立っている彼を、ジョルジュは見送った。 とてつもなく心配だったが、今はどうしようもない自分が腹立たしい。 まあ、あの紳士も、初日になにか間違いを起こすほど馬鹿ではないだろう。 そう思いながら、ジョルジュは部屋のベッドに、重い体を引きずって潜り込んだ。 だが、目を閉じても、頭のどこかが氷のように冷たく、堅く、意識がまどろんでも落ちることがなかった。 息が、いや胸が苦しいような。 「どうしたの?」 耳元で、鈴が転がるような愛らしい声が響いた。 ゆっくりと目を開き、声の主を見る。 そこには、いつの間にか少女が。不思議そうに覗き込んでいたのだ。 「どうしたの?」 もう一度、少女は尋ねてきた。豊かな金髪に大きな緑色の瞳。 まるでアンティークドールのような美しい少女は、その大きな瞳で問いかけてくる。 「どうしたの?」 もう一度、少女は問いかけた。 その言葉が意図とするものが、熱発した頭では考え付かず、ぐるぐると質問の言葉だけが 脳内を回る。 からからに乾いた口を開いて、何かを答えなければと、ジョルジュは思いながら口にした。 「…大切なものが守れない……辛いんだ…」 からからに乾いた口腔。 思わず口からでた言葉は、ただの言葉か、それとも本音なのか。 熱い意識の中、思考されたもではなく、言葉が口から零れ落ちる。 それは恐らく建前などを含まない、彼の言葉。 「大切なもの?」 「そうだよ」ジョルジュは言った。「いつでも捕まえていたいんだ…でも、そうすると彼は死んでしまうから… だから、言葉で繋ぎとめている……でも、今は手を離れたから、不安で仕方が無い……」 「どうして?繋ぎとめているなら、離れないでしょう?」 「離れるさ……その言葉の呪縛に気づいてしまえば……」 少女に答えながら、奈落へと沈んでゆく感覚。 繋ぎとめているのは、自分への罪悪感。 愛していると、繰り返し囁く言葉に応えることのできない、罪悪感が彼を縛り付けている。 その呪縛に気づき、打ち勝ってしまえば、彼はきっとこの手を離れる。 だから、繰り返し囁く、彼への告白。 彼を手放したくない故の、卑怯な私。 「でも、好きなんでしょう?」 奈落に響く、少女の声。 そうだよ。ああ、そうだ。私は影三を愛している。 その純粋さに惹かれ、君を捕らえて、君に縋りついている。 誰にも渡したくは無い。君を守るといいながら、私は君を捕らえて離さない。 君が誰かを愛したときには、きっと開放しよう。 だから、今は、あらゆる物から君を守ろう。 だから今は、今だけは、私の傍に。 「…エド…?」 奈落から、急に現実に引き戻されたような気がした。 気がつくと、ベッドに横たわっていた。 ベッドに潜り込んだ記憶はあやふやだったが、目の前にいるのが、見慣れた彼の瞳であることに 安心した。 「…影三……もう、でてきたのかい?」 「ええ」 濡れた黒髪に、着替えたTシャツは彼の使用する洗剤の臭い。 気持ちよかったですよ。とご満悦の彼は、首にかけていたタオルで濡れた髪を軽く拭いた。 「俺、明日は例の施設見学に行ってきます。あのシュタイン博士の症例も閲覧させてもらえるみたいですよ」 「それは、よかったね」 嬉しそうに語る日本人をみて、あの紳士の完璧なる接待にため息がでる。 シュタイン博士と言えば、ドイツの臓器移植術の権威だ。影三が憧れるドクターの一人である。 下心がみえみえなのだが、この日本人院生にそこまで語るのは憚られた。 だって、実際に彼にとっては願ってもないことだ。 「気をつけて行って来るんだよ」 「…エド?」 布団を被りながら、顔を見ずにジョルジュは告げる。「いつまでもココにいたら、私の熱が感染するかも しれない。はやく部屋にもどりなさい」 「……………はい…」 表情を伺うことのできない言葉。 小さく、その言葉に頷くと、影三はゆっくりと部屋を後にした。 何度も、何度も、振り返りながら。 次頁