次の日になっても熱は下がらなかった。 あの紳士の呪いじゃないだろうか、とジョルジュは半ば本気で考える。 何故なら、今日だってあの紳士は実に愉快そうな笑みを深めて告げるのだ。 「彼の事は心配しないで。影三くんの総てを、私が大切に守ろう」 影三くん、だと? 明日になれば「ハニー」とか呼び出すんじゃないだろうか、と気が気ではない。 二人が出て行ってから、ジョルジュは部屋に備え付けてあるシャワー室に入りシャワーを浴びた。 いてもたってもいられない。今日中に熱を下げてやる、と躍起になっていた。 だが、発熱している時に頭からシャワーを浴びるのは、あまり常識的なことではない。 余計に熱があがりそうなものだが、気力で下げるつもりでいたジョルジュは、さっさと服を着替えると、 広大な屋敷を散歩するという暴挙にでた。最早、安静という医学用語は彼の頭にはない。 呆れるほど広い屋敷内は、総てを回るのに一日はいるのではないか、という広さだ。 本来なら、ジョルジュはゲストであるのだから、屋敷の人間の許可なしにウロウロ歩き回るのは大変失礼にあたるのだが、その辺の常識が抜け落ちている所が、まだ熱発を引きずっている証拠だ。 闇雲に歩き回っていた彼の耳元で、声。 「お熱は下がったの?」 聞き覚えのある、鈴の転がるような声に、ジョルジュは足を止めた。 振り返ると、水色のワンピースを着た、愛らしい少女が自分を見上げている。 「…君は…」 ドコかで会ったような気がするが、その記憶をうまく引き出せない。 だが少女は、にっこりと笑って、ジョルジュの手を握った。 小さな、小さな、白い手。 「まだ、熱がある」少女は、緑色の瞳で見つめてくる。「あまり歩いたら、体に毒だよ?こっちに来て」 少女に導かれるまま、彼はすぐ傍の部屋に入った。 そこは広い部屋なのは当然なのだろうが、壁一面に作りつけられたガラスケースには、弦楽器のケースが 整然と並べられ、部屋の中央には、美しい黒塗りのグランドピアノが置かれていた。 「何か弾いてよ」少女が言った。「おじさん、得意でしょ?」 「…得意ってほどじゃあ…」 おじさんと呼ばれたことに、多少傷つきながらも、ジョルジュはその黒塗りの鍵盤楽器に近づいた。 ベーゼンドルファー。 世界三大ピアノと呼ばれるオーストリアのピアノだ。さすが金持ちといったところか。 「何か弾いてよ」 少女は笑いながら、鍵盤に触れる。ものによっては3000万円はくだらない楽器におしげもなく触る とこを見ると、やはり金持ちだからか、それとも価値を知らないのか。 「こんな立派なピアノに見合うような演奏は、できないよ」 触ってはみたいが、それはなんだか楽器に対する冒涜のような気もしてならない。 第一、最後にピアノに触れたのは、一体いつだったか。 「ベートーベンがいい」 少女は言った。真っ直ぐに見つめながら。「そうじゃなきゃ、あたし、動かないから」 「………。」 なんだかよく分からない脅迫(?)だが、仕方が無い。 椅子に座ると、ジョルジュは軽く息を吐いた。 「下手だけど、笑わないでよ」 「うん!」 やれやれ。 鍵盤に触れる、懐かしい感覚。まるで少年だった頃に戻ったような。 それは、母がいて、父がいて、そして……。 テンペスト第三楽章。 ベートーベン作曲、ピアノ・ソナタ第17番ニ短調作品31-2の通称。 ニ短調のソナタ形式のそれは、単純な音型を休みなく繰り返す。 嵐という意味を持つこのソナタは、まるで出口の見えないトンネルを疾走するかのような、 希望などみえない、未来を、それでも立ち向かうような力強さをイメージする。 その繰り返される旋律を奏でだす為に、夢中で鍵盤を追う。 まるで叩きつけるかのような和音。 そして、終焉。 弾き終わると同時に、拍手が聞こえた。 入り口には、老婦人が笑いながら手を叩いている。 確か、あの紳士の母親だと、昨日、紹介された。 ジョルジュは慌てて、手を引っ込める。 「素晴らしい、演奏でしたわ。ありがとう」 老婦人は、杖をつきながら、こちらへと歩み寄る。 「このピアノが生き返るのを、久しぶりにみました…力強いテンペストね」 「すみません、勝手に演奏してしまいまして…」 「いいのよ」 老婦人は、ジョルジュの手の触れた。 それは皺だらけの、それでも温かい、美しい指先。 「あなたの雰囲気には似合わない選曲みたい」 「そうでしょうか…」 「ええ」老婦人は目を細めて「そんな激しい演奏する方じゃ、ないのでしょう?」 「…あ、いえ」ジョルジュは軽く首を振り「ただの教養程度で…ただ楽譜が読めて弾ける程度ですから」 「また、弾いてくださる?きっと娘も喜びますわ」 微笑む老婦人の瞳は、微かに潤んでいる。 声も少しだけ震えているようだった。 このときになって、先ほどの少女がいなくなっていることに、 ジョルジュは初めてきづいたのだった。 ******** 「ベーゼンドルファーは、主人が娘の為に買い求めましたの」 もう数度目かになる老婦人の言葉を、ジョルジュは静かに聴く。 話は、老婦人の娘の思い出話。寸分違わぬ内容のそれを、かれこれ5回は確実にきいていた。 だがそれを遮ることはできなかった。 何故なら、二度と増えることの無い思い出を語ることほど、苦しいのだということを、 よく知っていたから。 気力の限界か、寒気がしてきた。マズイ、悪化したか。 日が暮れる前にジョルジュは食事をだしてもらい、床へとついた。 もう夕闇がせまるというのに、日本人院生はまだ戻らない。 「気が気じゃないのね」 耳元に響く、鈴の転がるような声。 顔をそちらに向けると、そこには美しい緑の瞳の少女。 「そりゃあ、ね」ジョルジュは碧眼を細めながら「君の弟が影三に何かをしたら、私は黙ってはいられない」 「あら、ばれてたの?」 「君のお母さんに詳細を聞かされてね」 「普通、もっと驚かない?あなた、エクソシスト?」 「ただの一般人だよ」と、ジョルジュ。「母親がその手の事に詳しい人でね、よく聞かされたから」 むくりと、ジョルジュは起き上がった。そして少女の手に触れる。 だが少女の手は、彼の手が触れる寸前で幻のように一瞬だけ掻き消えた。 「うーん、不思議だ」と、ジョルジュ。「初めて見えたけど、分裂症患者が見ると言われる、リアルな幻覚というのも、こんな感じなのかな」 「私は幻覚じゃありません!」 ぷう。頬を膨らます少女は、街でみかける同年齢の少女となんら変わらずに見える。 だが、この少女は、もう30年以上前に亡くなったのだという。 「熱が下がれば、もう少し理論的に検証できるんだけどなあ」 「そんなこと、しなくてもいいよ」 目の前の非常識かつ非科学的な存在を、ジョルジュは見つめる。 死者の魂がこの世に留まるのは、死者自身の未練の念か、生者が死者を想いすぎて留まらせているのだと、母は言っていた。 ならば、母と姉は、この世に未練などなかったのか。 「で、可愛いゴーストちゃんは、私に何か御用なのかな?」 「そうね」少女は笑いながら、ぴょん!とベッドの上に飛び乗った。「恋の話が聞きたいなあ」 「恋?」 飛び乗ってきた少女の重みは、まったく感じられない。 ゴーストには肉体がないとされるから、物質量は感じられないのか、と感心する。 「そ、カゲミツって人のこと」 「……聞いてどうするんだ?」 「聞きたいだけよ」 興味津々の瞳の色に思わず喉を鳴らした。ゴーストはなんでもお見通し…というわけではなさそうだ。 「恋…と言っても、ロマンスの欠片もないんだよ」 幸せな恋物語とは、無縁な感情。 そんな可愛いらしい言葉とは、あまりにもかけ離れた。 「ないの?」 「どちらかというと、くら〜い話になるね」 恐らく闇。道標を指し示す光すらない。 「なんで?恋は綺麗で楽しいものだって言うじゃない?」 「そうだね。そう言うよね」 ならば、これは恋ではないのかもしれない。 ならば、これは愛ではないのかもしれない。 それは、もしかしたら、もっと汚くて、最も醜いものなのか。 「どうして?だって、愛しているんでしょう?」 「愛してるよ、誰よりも」 でも、彼は私を愛してはいない。 それでも構わないと言いながらも、束縛する卑怯な言葉。 君の理解者面をしながらも、その首に鎖を巻いて、その端を握るのは私。 一番近い位置で、君の呼吸すらも把握したい。 解っている。 自分はあの紳士と変わらない。 下心が剥き出しで、彼を手元において置きたくて。 それでも、だから、だって、君は私を愛することができないというから、 だから私は、そんな手段に。 卑劣とも卑怯とも罵られても、構わない。 君の魂に触れていられるのなら。 「ベートーベンが聞きたい」 「は?」 唐突な少女の言葉に、ジョルジュは笑った。「いきなり、どうしたの」 「私、ベートーベンが一番、好きなの」少女は言った。「でも、あれはやっぱり、簡単に弾ける曲ではないのよね。私が弾いても、貴方のように弾けなかった」 「やたら音が強いだけだよ」 「後期三大ソナタ、弾ける?」 「……31番なら覚えてる…」 「じゃあ、弾いて!」 少女の手が触れた。儚げだが少女の手の感触が伝わる。 自分から触ってきたら、消えないのか。と、どうでもいいことを考えながら、 ジョルジュはベッドから降りた。 充実した一日に、日本人院生の彼は大満足していた。 最新の設備に、世界中から集まる技術と理論。その水準の高さに、心が跳ねた。 雑誌で見た研究員に直に会え、話し込むこともできた。 正直にいえば、とても、とても楽しかった。 「明日、カゲミツに是非見せたいものがあるから、楽しみにしていてくれ」 紳士の言葉にワクワクした。 今日、見てきたものを、早くジョルジュに伝えたかった。 きっと一日ベッドの上にいて、暇だっただろう。 あれやこれやと考えながら、影三はジョルジュの部屋のまで数メートル来た時だった。 ドアが開き、部屋から出てきたのはジョルジュだった。 彼は影三には気づかず、背を向けたまま歩き出す。 どこへ行くつもりだろう。 声をかければよかったのだろう。だが、なんとなく掛けそびれて、数メートル離れたまま、 影三は彼の背中を追いかけていた。 数分歩いてたどり着いたのは、屋敷の端にある部屋だった。 まるで当たり前のように、ジョルジュはその部屋へと入る。 その行動が、まるで自分の知らない彼のようで、背中を冷たい汗が流れ落ちた。 何故か。どうしてか。 エドが自分の知らないほど、遠い存在に思えて。 ほどなくして、室内からピアノの音が聞こえてきた。 聞いたことがあるような、曲だった。 あいにく、芸術方面には疎い影三には、それがベートーベンのピアノソナタであることまでは 解らない。 ただ、最初の包み込むような豊かな愛情。優美で清楚な美しい愛。その旋律はまるで、彼自身のよう。 重厚なドアを、静かに開けて、室内を覗き込んだ。 弾いているのは、やはりジョルジュだった。 彼がピアノを弾けるということは知らなかった。だが、その鍵盤楽器を演奏する彼は、自分の知らない 彼のようで、俄かに緊張する。 曲が途切れて、そして曲調が変わった。 第三楽章。 変イ長調の即興的な序奏。そして切々と歌いだされる『嘆きの歌』。 裏切りと苦悩は、人の苦しみを一身に背負い込み、疲れ果てて希望も無い。 だが、その後に紡ぎだされるフーガは、その総てを払い、力を取り戻して、喜びを謳歌する。 「影三?」 ドアに手をかけたまま立っている彼の名前を呼んだ。 呼ばれた彼は、2,3度瞳を瞬かせてから、こちらへと歩み寄ってきた。 「ピアノ」影三は言った。「とても上手ですね…知らなかった」 「ありがとう」 笑いながら、ジョルジュは立ち上がり「今日は、楽しかったかい?」 「え…ええ」 短く応える。 色々と話そうと思っていたことが、総て吹き飛んでいた。 ただ脳裏に焼きつくのは、先程のピアノの音色と、それを奏でる彼の姿。 「戻ろうか」 言葉に頷き、彼の横に立った。 知らなかった彼の一面。知る機会がなかったのだから当然ではあるが、だが、何故か、 今しがた知った彼は、とても、とても遠くにいるようで、落ち着かない。 ただの感傷だ。それだけだ、と自分に言い聞かせる。 ただ、それだけの事なのだ。 それなのに。 「他にも弾ける楽器があるんですか?」 あえて尋ねていた。 ジョルジュは「楽器?」と、影三の方を向き「…バイオリンも弾けるよ、一応」 「バイオリン!?」 「…そんな大声ださなくても」苦笑しながら、ジョルジュは「母方がね、音楽一家なんだ。母は ピアノと声楽、姉がピアノをやっていたよ」 「今でもですか?」 「いや」 静かに言葉を切った。そして「二人とも、私が子どもの時に死んだよ。…」 浅くはない傷跡。いや、もしかしたら、まだ生々しかったのかもしれない。 「そう、だったんですか」 当然だが、自分の知らない彼の話に、全身が冷えるのが解った。 当たり前だ。いくら親しくても、その人の生い立ちから総てを把握できりはずなどないのに。 解っている。わかっているはずなのに。 「じゃあ、影三。ゆっくり休んで」 たどり着いた部屋の前。 いつもの笑顔でジョルジュは告げると、自分の部屋へと向きを変えた。 「エド…!」 その背中に、思わず声をかける。 彼は振り向いた。いつもの表情で。 しかし、その表情が、影三の深い部分を大きく抉る。 「…エド…」声が、震える。「もしかして、怒っているんですか」 「怒ってないよ」 まるで用意されたかのような、回答。 笑って答え、彼は部屋へと消えた。 ぱたん。静かに閉まるドアの響きは、まるで永遠に閉ざされたまま二度と開かない、 決別の瞬間のよう。 嘘つき。 廊下に残されたまま、影三は彼の部屋のドアを見つめる。 嘘つき。 だったら、何故、いつものように言わないのですか。 ここに来てから、あなたは、愛してると言わない。 一度も、その言葉を言わない。 次頁 前