三日目。 郊外で建設中の、新しい研究施設へと紳士は日本人院生を連れ出した。 広大な敷地の中には、併設の病院はもとより、5つほどの医学研究の施設を備えるという。 「遺伝病や先天性の病気に対する研究の拠点にしたいのだよ、それには人工臓器の開発も入っている」 得意げに話す紳士の傍ら、日本人院生はぼんやりとしたまま覇気がなかった。 昨日の興奮したかのような元気が、まったくない。 「疲れたのかね?」 さり気なく肩を抱き、紳士は顔を覗き込んだ。 慌てて影三は彼から一歩離れ「だ、いじょうぶです」 「色々と連れ回してしまったね」紳士は笑って、影三の手をとった。「君のような優秀な人間を見ると、 嬉しくなるんだ。影三、是非、イギリスに来てくれないか」 「え?」 突然の言葉に、頭が真っ白になった。 だが、その手を離さずに、紳士は尚も言葉を続ける。 「私の元へ来て欲しい。君のような人間を、私は求めていたんだ。私に総てを預けてくれれば、君は 何も心配することはない。私は、君が欲しくてたまらない」 「え、あの…」 握られる手の熱さに、いや〜な予感がさすがにした。 「それは」影三は、おそるおそる尋ねる。「…研究者…として、ですよね?」 「勿論だ」と、紳士。「研究者として、だが…プライベートのパートナーとしても君とは付き合いたいがね」 「………。」 予感的中。そうきたか。 「あの…俺、大学を移る気はないので!」 「何故、私はドクタージョルジュよりも、遥かに、君の望むものを与えることができるのに」 「俺とジョルジュは、そんな仲じゃありません!」 「じゃあ、尚更だ」 力強い口調。握る手を離し、彼は影三の両肩をしっかりと掴んだ。 「君は囚われている」真っ直ぐに見つめてくる、強い眼差し。「信念を持つのは良いことだ。だが、 君のような人間は、もっと自由に羽ばたくべきだ。大学に拘る必要はあるのかい?」 「…それは…」 強い眼差しに気圧されそうだった。 まるで、抉られた深い部分さえも、見透かされたかのような。 あれだけの事業をこなすこの男は人の心を捉えて、動かすのが得意だった。 そうでなければ、こんな幾つもの事業に成功するわけがない。 この大学院生の能力は、近い将来、必ず必要になるであろうことも、恐らく、他の研究機関からも 目をつけられるだろうことを、この男は正確に予想していた。 そして、そのことを、一緒について来た研究医も気づいているだろう、ことも。 「どうだね?」 見つめてくる眼光を跳ね返せるほどの説得力を、影三は探し出せず、息をのむ。 ****** 39.30 体温計の小さな液晶に表示される数字に、ジョルジュはため息を吐く。 考えてみれば、30歳を過ぎれば、免疫機能も落ちてくる。自分の専門分野であるのに忘れていた。 今日で三日目だ。 あの英国紳士が、そろそろ行動を起こすだろう。 外は快晴。 今日はいい天気だね。郊外にいい温泉があるんだよ。 そう、あの紳士に誘われたら、あの日本人は喜んでついていくだろう。 温泉ぐらい、幾らでも連れて行くから、無事に帰って来ることを、ジョルジュは本気で祈っていた。 「おじさん!」 唐突に耳元で響く、鈴のような愛らしい声。 「…おじさんはやめてくれ」 唐突に目の前に現れた緑色の瞳の少女に、最早驚きもしない。 のんびり答えるジョルジュに、少女は「おじさん、お願い!助けて!」 「助けて?」 「お願い!はやく!」 ゴーストからの助けに、ジョルジュは関節の節々が痛む体を起こした。 導かれるまま、ジョルジュはピアノの置かれている部屋へと向かった。 「お願い、それだけは止めて下さい!」 老婦人の声だろうか。男性の怒声に混じり、悲痛な叫び声が聞こえる。 「そうは言ってもねえ、奥様。これは正当な契約ですから」 「でも、ピアノだけは止めて!お願い、お願い!」 「そうは言っても、困るんだよ」 数人の男性と、老婦人。そして老婦人を支える、執事。 その光景の中に入るには、ジョルジュの存在はあまりにも不似合いだったが、この際、仕方が無い。 「ああ、ジョルジュ様」 執事がいち早く存在を見つけ、そして男性たちに頭を下げた。 「申し訳ありません。お客様の前ですので、今日のところは、どうか」 「仕方がないですな」 男性は、やれやれと言った面持ちで、部屋を後にする。 一番長身の男が、それでも老婦人に言い放った。 「奥様、あんたがそうは言っても、あんたの息子さんとの契約は成立しているんですよ。詳細は、 息子さんに聞いてください」 捨て台詞にしては、辛辣とも言える言葉だった。 老婦人は、執事に支えられたまま、がっくりと項垂れる。 室内には、ピアノだけ。 壁一面のガラスケースの中に整然と並べられていたものは、今は姿を消していた。 つまり、競売か。 息子は芸術方面には疎いのだろう。ただ置いてある価値ある楽器なら、売りに出したほうが良いと 判断したのだろう。 だが、このピアノ。 これは、あの緑色の少女に買い与えたのだと、老婦人は言った。 今となっては、これは亡くなった少女との思い出そのもの。遺品なのだろう。 縋るように、愛しいように、老婦人は黒塗りの鍵盤楽器に触れていた。 抱きしめるには大きすぎるこの楽器は、それでも、亡くなった少女そのものなのだろう。 息子には、高価に売れる楽器にしか、見えないのだろうが。 「何か、弾いて」 ジョルジュの耳元で、少女の声。姿は、見えない。 「いきなりここで私が弾いたら、変だろう」 小声で反論するが、少女は無視して 「ベートーベンの幻想曲ソナタがいい」 あのね。 少女の姿は見えなかったが、じりじりとした少女のせがむような感情を感じる。 この感情に、そして少女の物言いに軽い眩暈を覚える。 そう、なんだか懐かしい。既視感とでも言うのだろうか。 ベートーベン作曲の幻想曲風ソナタとはピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27の2『幻想曲風に』 通称『月光のソナタ』と呼ばれる曲。 正直、心がざわついている今、いわゆる『月光』を弾く気分でもなかった。 が、仕方が無い。 ジョルジュは、ベーゼンドルファーの椅子に座った。 そして、老婦人を見る。 彼女はまるで眠るように、ピアノに縋りついたまま。 その姿が、何かに重なる。 遠い遠い記憶。 持ち主を失ったピアノ。 部屋の中央で、静かに佇む鍵盤楽器に縋りつく。 あれは、誰だった。 ピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27の2『幻想曲風に』 第三楽章 有名な第一楽章は「湖の月光の波にゆらぐ舟のよう」と形容されているが、 第三楽章は、第一、第二とは違う、疾走感とその重苦しさを兼ね備えた曲調。 この曲は、ベートーベンがピアノ教師をしていた伯爵令嬢に捧げられた歌と 言われている。 音楽家として、決して恵まれたとはいえない作曲家が、女性に捧げる歌にして、 何故、第三楽章がこんなにも、重厚であったか。 苦難に満ちた時代、それでも最後は、希望に縋るかのような、クライマックス。 老婦人の表情は、かたく、かたく、閉ざされたまま。 ********* 猛スピードを維持したまま、高級車は敷地内へと滑り込んだ。 連絡を受けてから、すでに一時間。 石造りの堅固な屋敷の端に位置する、離れのような一角、複数の窓からは、工場からのような 黒煙が絶え間なく噴出していた。 「母が火を点けたって!?」 車から降りた紳士は、屋敷の外で成り行きを見守る使用人を捕まえて、問いただす。 すぐに礼服に身を包んだ老齢の執事が、駆け寄ってきた。 「奥様は…例のピアノのことで大変心を痛めまして、その……」 「心を痛めて、放火したのか」紳士は言い放つ。「母は、どうした」 「ジョルジュ様が救出して下さいました。ただいま、病院へと向かわせております、が…」 「どうした」 「奥様を救出後に、またジョルジュ様が屋敷内へと向かわれまして、まだ中に…」 「エドが!?」 思わず叫び声をあげた。影三は黒煙のあがる屋敷をみあげる。 何故、どうしてそんな真似をしたのだろうか。 ふと、昨日のエドワードの姿が脳裏をよぎる。 見たことの無かった、姿。静かに、ピアノを奏でる、彼の姿が。 「影三!」 紳士が、腕をとった。離すまいと、力強く。「もうすぐ消防が来る。後は専門にまかせよう」 「それじゃあ、駄目だ!」 昨日の彼は、まるで別人のようだった。 何故、どうして、そう思えたのか。 「俺が行かなくては、きっと意味がない…!」 静止を振り切り、影三は屋敷へと迷い無く駆け出した。 エドワードのところへ。 彼は必ず、あそこにいるはず。 内部に炎は見えなかったが、白と濃黒の煙が室内を満たし、視界はまるで霞かかったように 不明瞭だった。吸い込む空気は最早新鮮とは言えず、目に見えぬ毒素が空中を満たし、 呼吸のたびに肺へと流れ込んでくるようだった。 無謀だったか。そう思いつつ、ジョルジュは床へと座りこむ。その傍らには、少女。 「無謀よ」と、少女。「あのまま、母様と逃げればよかったのに」 「私もそう思うよ」 心の底から、そう思う。それなのに、何故そうしなかったのか。 いや、できなかったからだ。どうしても、無視できなかった。 「君は、ピアノに憑り付いているのかい」 生きているかのような、少女。できるなら、この少女も連れ出せたら。 「そうよ」少女は笑って。「だから、私はここを動けない。残念でした」 「残念だ」 やはりそうだったか、と自嘲する。 恐らく少女は、このピアノに縛り付けられているのではないか。あの母親の思いが綱となり。 「ねえ、おじさん」それなのに少女は無邪気に笑う。「私を気にかけてくれるのは、私が おじさんのお姉ちゃんに、似てるからでしょう?」 「バレたか」 「バレバレよ」 「前言撤回、似てないよ」 「嘘つき」 「嘘だよ」 クスクスと少女は笑った。鈴の転がるような、可愛い声で。 「君ぐらいの年だったよ、姉は」 もう色あせてもいいぐらいに、年月の経った記憶の筈なのに、まるで昨日のことのように、それは鮮やかで 辛辣なまま。 「前の大戦の時だった…やはり火事でね……紙のように、姉と母は燃えてしまったんだ」 まだ7歳にも満たなかったはずだが、その光景は脳裏に焼きついている。 忘れてしまうには、あまりに強烈な事実。 家にあるピアノは主を失い、音を奏でられることもなくなった。 「だから、君も連れ出したかった」 「ありがとう」 少女は笑った。困ったような表情で「でも、私はもう死んじゃっているから。おじさんも死んだら、一緒に ゴーストやる?」 「私は死なないよ」ジョルジュも笑う。「ピアノが燃えたら、君はどうなるんだ?」 「知らない。救われるのかなあ?」 「なら、安心だ」 「ねえ!おじさん、ピアノ弾いて!」 唐突な、いや少女らしい申し出に、ジョルジュはさすがに苦笑する。 「火事の中でベートーベン?映画か、漫画じゃないんだから」 「いいじゃない」少女は言った。「最後のお別れに。今度こそ、幻想曲ソナタの第一楽章」 「それは、はまりすぎだよ」 「いいじゃない。お願いします」 煙の渦巻く火事現場で酸素濃度の少ない今、ピアノ演奏をするなど正気の沙汰ではない。 だが、この少女との別れだというのなら、それも悪くはないと思う。 エドワード、連弾しましょう。 ああ、そういえば。姉はよくそんな事を言ってくれたような気もする。 ピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27の2『幻想曲風に』 第一楽章 ベートーベンの三大ソナタにあげられる通称『月光のソナタ』 恐らく、ベートーベンの作曲したピアノ曲の中で、「エリーゼのために」の次ぐらいに 有名な曲だろう。 その物悲しい旋律が嫌いだった。いや、苦手だった。 エディは男の子ですものね。 そう笑ったのは、誰。 「エドワード!」 急に現実に引き戻されたかのような、叫び声。 名前を呼ばれて顔を上げると、視界を黒髪が遮った。 「影三?」 縋るように肩に顔を埋める彼の名前を呼ぶ。「どうしたんだ?ここに来たら、危ないだろう」 宥める様にその黒髪に触れようとした、刹那、勢いよく頭が上がり、その勢いのまま 彼はジョルジュの胸倉を掴みあげた。 「あなたこそ、何を考えているんです…」 低い声で尋ねる彼の手は、微かに震えている。 まっすぐに見つめる鳶色の瞳は、痛々しいぐらいに見開いていた。 「何で、こんな自殺行為をするんですか」彼は言った。真っ直ぐに見据え「それとも、死ぬつもりだったんですか? ここで、このまま俺を見捨てて、一人で死ぬつもりだったのか!」 震える指先、、縋るような言葉。 「すまない」 両手で、胸倉を掴む彼を抱きしめた。 死ぬつもりなど、勿論なかった。 死ぬつもりでは、勿論なかった。 もしかしたら、待っていたのかもしれない。彼が、自分を求めて、この炎と煙の渦巻く死の淵へと、 迷い無く駆けつけてくれるのを。 試したのか、彼の執着を。 死ぬつもりなど、なかった。 そんなこと、考えもしなかったけど。 でも、君が来てくれるのを、ドコかで望んでいたのかもしれない。 それでも、もしも自分が死んだとしたら、私は君の中に刻み込まれるだろうか。 深い、深い、誰にも触れさせることさえ許さない、真っ白で柔らかい、容易く傷つくであろう場所に 私は刻まれることに、なるだろうか。 永遠という束縛を君に課すことになるのだろうか。 「ばいばい、おじさん」 耳に響く、鈴のような、愛らしい声の少女のように。 ******** 二人部屋の病室の片方は、無人。実質個室のような環境が、今はありがたい。 部屋の奥で揺れるクリーム色のカーテンの隙間からは、暖かな陽の光が斜めに差し込んでいる。 穏やかな、午後だった。 「アホですか、あなたは」 そんな穏やかなムードをぶち壊すかのような台詞を放ち、日本人院生はベッド脇の丸椅子に腰掛ける。 「そーゆーのを『医者の不養生』って言うんですよ。大人しくしていればすぐに治ったでしょうに」 「反省してるよ」 彼の言葉に、反論もできない。 結局あの火事のあとに病院へ行ったジョルジュは、そのまま入院となった。 病名は肺炎。 つまり、火事は直接は関係が無い。 「道理で胸が痛いと思ったんだ」ジョルジュは笑って「影三に振られっぱなしの心の傷かと思ってたけど…」 「エド」 言葉を遮り、影三はジョルジュを見つめた。 険しい、真剣な鳶色の瞳。 「何故」影三は言った。「あの時、あなたは、あの部屋にいたんですか」 煙の立ち込める屋敷内。 微かに聞こえてきたピアノの旋律。 いや、それが聞こえなくても、解っていた。 彼はあのピアノと共にいる、と。 「影三は、なんで分かったの?」 その視線を受け止めながら、緩やかに笑う。それはいつもの、彼の笑顔。 「音が聞こえたから……」 そう答えてから、彼は言葉を切った。 違う。たとえその旋律が聞こえなくても、彼があの部屋にいるのは分かっていた。 「あのピアノに、憑りつかれた…みたいだったから」 初めて、彼がピアノを奏でているのを見たときから、感じていた。 まるで、まるで、彼はあの鍵盤楽器に魅入られていたようだった。 自分の知らない、見たことの無い彼は、まるで、あのままピアノと共に消えてしまいそうだった。 そのまま、自分を置き去りにして、どこかへ旅立ってしまいそうだった。 死の淵に立っていたはずの彼は、あんな状況ですらあったのに、その楽器を演奏していた。 その静かな物悲しい旋律は、影三でも知っていた。 短調で彩られた旋律は、まるで、そのまま死の世界へと旅立つ鎮魂曲のようにすら思えたのだ。 「うーん、たしかに憑りつかれていたかもねえ」 飄々と、その本人は答えた。「あのピアノの名前、影三は知っているかい?」 「……YAMAHA…とか?」 「ベーゼンドルファー。30万ドルはくだらないよ」 「30万……!!」 その金額に影三は絶句した。あの楽器に、楽器にそんな値打ちがあるなんて、信じられない。 金額を口にしたまま二の句が告げない彼に、ジョルジュは笑いながら、自分の頬を指差した。 「キスして、影三」 「はあ!?」 「現実帰還のお祝い。頬ならいいだろう?」 ニコニコと、それこそ嬉しそうに笑う白人をみて、なんだか複雑な心境だった。 どこまでが本音で、どこまでが冗談なのか。 この男の心情は本当に捕らえづらい。 だけど。 「……特別ですよ……」 丸椅子から立ち上がり、影三はベッドの淵に腰掛けた。 彼の左肩に手をかけ、そして。 影三の唇が、エドワードの唇にしっとりと触れた。 それは、ただ触れるだけの軽いものであったけれど。 触れる柔らかさ。その甘やかさに、鼓動が早まる。 閉じられた黒い睫が微かに震えていた。 思わず、ジョルジュは彼を腕の中に閉じ込めた。 現実の彼の体。触れることのできる、愛しくてたまらない。 「愛してる、影三」 耳元で囁かれる言葉に、力が抜ける。 それは、それは、いつもの彼の言葉。 憑りつかれているみたいだ…と彼は言った。 そうだったのだろうか、今にして思えば。 微かに震えながらも、彼は口付けてくれた。 普段の彼なら、絶対にしない。 そんなにも、彼に不安を与えてしまったのだろうか。 そんなにも、彼に不安を与えてしまったのか。 「愛してる、影三」 君を束縛する科白。 だけど、私は君に告げずにはいられない。 それが君の自由を奪うこととなっても。 だけど、必ず開放するから。 君が誰かを愛したとき、その時は、必ず、必ず。 だから、今は、今だけは。 (おわる) 前