本当はあまり気乗りのしない依頼ではあった。 いや、はっきり言って、受けたくはなかった。 だが。 「じゃあ、行ってくる」 振り返らずに、BJは玄関のドアを閉めた。 助手の少女の表情を見る事無く。 その依頼を受けて数日。 自覚はなかったが、随分酷い表情をしていたらしい。 心配性な少女は、何度もこの依頼を断るように言った。 だが、今回だけは断るわけにはいかなかった。 依頼主はニューヨークのバート病院院長。 患者は、シガニー・スタントン。大手製薬会社『KS-ヒルトン』の社長の妻らしい。 『…是非ドクターに頼みたいと、仰っているのです』 数週間前の電話を回想する。 病院長のビル・バートは、非常に言いにくそうにその依頼を説明した。 社長であるシェスター・スタントンは、かつてノアール・プロジェクトの薬理研究の際に携わっていたらしい。 そして、ドコから聞きつけたのか、BJがそのノアール・プロジェクトに参加していた、 人工臓器開発者である間 影三の息子であることを知ったというのだ。 『間氏と自分は懇意であったから、是非にでも会いたいと言っているのです…どうでしょうか』 ノアール・プロジェクト。 まさか、またその名前を聞くことになるとは、正直思わなかった。 30年以上前世界の高名な医師たちで発足した、人工臓器開発をメインとした医療技術促進開発の為のプロジェクトの名称。 その後、そのプロジェクトは凍結され、メンバーも解散。 だが、統括者である人物が、そのプロジェクトで得た技術を私物化し、裏組織へとのしあがる。 その結果、その組織は感染症を生み出すこととなり、その一連の事件と呼ぶべき出来事に、BJは巻き込まれたのだ。 その感染症の治療方法も確立され、その名前も記憶の片隅に埋もれつつあったのに。 なんという皮肉か。 よりにもよって、今の時期にこの名前を聞かされようとは。 少女は、絶対についてくると言った。 だが、BJは半ば怒鳴りつけるように、少女を日本へと置いてきた。 もう決して、そのプロジェクトに少女を近づけたくはなかったのだ。 それが、すでに、総てが終っていたとしても。 それは本当に気紛れであった。 いや、もしかしたら、予感があったのかも。 そんな筈はないか。 だが、もしこれを運命とかほざくとしたら、それはなんて皮肉めいた運命なのか。 時計台の臨めるセントラルパーク。 バート病院に寄る前にここに来たのは、何故なのか。 あの時 ノワール・プロジェクトの関して、唯一の手がかりである医師たちの集合写真が撮られた場所。 一番忘れたい、一番忘れがたい、場所。 来るべきだったのか、それとも無視してさっさと仕事を済ませて、日本に帰るべきだったか。 時計台を見上げながら、BJはぼんやりと思う。 「…ブラック・ジャック?」 背後から声をかけられた。その声にぎくりとする。 何故、どうして。 いや、もしかしたら、予感があったのかも。 そんな筈はないか。 だが、もしこれを運命とかほざくとしたら、それはなんて皮肉めいた運命なのか。 ゆっくりと、BJは振り向いた。 自分に声をかけた人物。白銀の髪。黒い眼帯。 いつもは白いと思う肌は、この国では普通か。と、どうでもいいことを思う。 「大丈夫か?」 振り向いても無言のままの彼に、死神はいつもの抑揚にない声で言った。 「お嬢ちゃんは一緒じゃないのか。それとも迷子か」 「…私、一人だ」 「ふうん」 無表情で、無機質な声。それはいつもの死神の声。 それなのに、大丈夫か、だと? 「お前さんは…ここで、何をしている」 「俺?」尋ねられて、死神は時計台を見上げた。「仕事が終ったから、散歩している」 「また、誰か殺したのか」 「それが、俺の仕事なんでね」 「貴様…!」 カッと頭に血が昇った。「よくもそんなことを、そう易々と口にできるな!」 「お前が振ったんだろ」 「黙れ!」 「まあ、まて」 今にも胸倉を掴みかかりそうなBJを制し、死神は時計台を見上げた。 その表情に、何故だか、ぎくりとした。 時計台を見上げるその青い瞳。その横顔。 それはまるで、それはまさに。 「時間ある?」 パッとこちらを向いて、死神は尋ねた。 「あ、いや…」唐突にこちらを向かれて、BJは少々狼狽し「…もう、いかないと…」 「ドコにいるの」 「そこのバート病院…」 そこまで言ってから、BJは慌てて「お前には関係ない!」 そうですね。と小さく死神は笑って見せた。 ああ、あんたは。と、BJは思う。 なんで不意に、そんな人間らしい表情をみせるの。 「俺、まだ2,3日いるから」 ひらひらと手を振って、死神はあっさりと離れて行った。 一体、何だったんだ。 考察しようにも、時間が本当にあまりなかったので、BJは思考を切り替えて、依頼をしてきた病院へと向かった。 病院の受付で名乗ると、すぐに病院長と老齢の貴婦人とも言える、上品そうな女性が現れた。 ビル・バートと、その母親であるキャサリンだ。 「お久しぶりです」 一礼すると、ビルは「こちらこそ!」と頭を下げる。「わざわざお越し戴いて、ありがとうございます!」 「あら、今日はお嬢ちゃんは一緒じゃないの?」 のんびりと、キャサリンが尋ねた。「お母さんとお留守番?偉いわね」 「ええ、まあ」 曖昧にBJは答えた。まあ、ここで詳しく述べる必要もない。 依頼患者のいる病棟へ向かいながら、BJは「その後、お加減はどうです?」 「ええ」彼女は優雅に微笑んだ。「快調よ。ありがとうね、本当にありがとう」 その笑顔は、本当に嬉しそうで心底安堵した。 数年前。ノアール・プロジェクトの事を調査していたBJは、この病院でこの貴婦人に人工心臓移植術を施した。その手術のときに知った、ヒュドラ型人工心臓の存在。余りに精巧で精密なそれの開発者が、間 影三であることを、いや、父が人工心臓開発技術者であることを、初めて知った。 最上階の特別室。 一般病棟とは違う、この階だけがまるでホテルのような贅沢な造りになっている。 ドアをノックしようとした時だった。 「…影三が…気の毒でしたわね…」 ぽつりと呟いた、貴婦人の言葉。 彼女は、かつてこの病院に勤めていた、BJの両親の同僚だった。 「ええ」 短く答えて、BJはドアをノックして、病室内へと入って行った。 何も返すことが、できなかった。 だって、何も言い返せない。 死に目にすら会うことが出来なかった、父。 死んでから初めて知った、父の愛情。 真実を知ったときには、総てが終っていたのだ。 もう二度と、手の届かない。 気の毒も何も、もう、総てが脆くも崩れさって、 後に残るものは、粉々で砕けた美しい砂のような。 掬っても、掬っても、手のひらから、サラサラと零れ落ちていく。 俺は、父の職業すら知らなかった。 そんな俺が、一体、何を言えるというのだ。 次頁