依頼された患者の疾患名は子宮体癌。 この癌は放射線療法や化学療法の効果が乏しいので、手術療法が主な治療法だ。 入国前に、既に術前検査等の前処置は終えているので、患者に対面した次の日に手術となった。 「術式は子宮頚部に癌が及んでいないので、準広汎性子宮全摘出術。 それと骨盤内および傍大動脈リンパ節郭清術を行う」 淀みなく伝える言葉に、スタッフは静かに頷く。 その中には、院長であるバートもいた。 「では、よろしくお願いします」 礼儀正しく、一礼する。 天才外科医は、メスを手にとり、その技術に集中する。 昨日、患者の夫に会った。 一般病棟の二倍はあろうかという特別室。 廊下と同じく、室内も大型テレビや調度品等が、豪華なホテルのような造りになっていた。 その大型テレビの前に設置されている、看護用の中でも最高ランクに属する、大型な介護ベット。 それが、ここが医療施設であることを物語る。 「バート院長!」 そのベッドの傍らに立っていた初老の男性が、声をあげた。 こちらへ2,3歩近づいた時、その男性の動きが止まる。 「…もしかして…」男性は驚きの表情でBJを見詰めていた。「…失礼ですが、もしかして、貴方が…」 「ドクター・ブラック・ジャックです」 バートが答えた。「先程、ここへ到着しました」 「ああ、やっぱり!」 男は一瞬、口元を歪め、そしてすぐに、鮮やかに人のいい表情をしてみせた。 「妻を、妻をよろしくお願いします!」 それは妻の身を案じる夫の姿。 だが、自分を見たときの、あの一瞬の表情も見逃してはいなかった。 ああ、やっぱり。 あの男の言葉は、やはり父のことを指すのか。 もうすでに終ったことなのに。 最早、終ってしまったことなのに。 何故ここで、自分はメスを振るっている。 さほど、難しい症例でもない。 バート院長に仲介されたから? 『俺、まだ2,3日いるから』 唐突に、昨日の死神の言葉を思い出した。 仕事を終えたのに、何故あの死神は未だにここに留まるのか。 わからない、わからないことだらけだ。 手術は時間通りに終えることができた。 そんなに難しい手術ではなかったが、緊張感が全身から抜けるのを自覚した。 終った。後は、術後の経過観察後に帰国するのみ。 術衣を着替えた後、患者の夫から、是非、夕食を共にしたいという申し出があった。 断ろうとしたが、バートからも、今日は自分が泊まりに入るので、大丈夫です。と言われる。 あまり気が進まなかったが、手術料を確認して欲しいというので、BJは夫の申し出を受けることにした。 自分の携帯電話の番号をバートに告げ、BJは夫の用意した車の後部座席へと乗り込んだ。 馬鹿でかい黒塗りのベンツ。 自動車だというのに、高価そうな革張りのシートに身を沈めると、眠気が襲う。 難しくはない症例とはいえ、全身全霊を込めて手術したのだ。 その集中力が切れた今、どろどろとした睡魔に襲われて、BJは静かに瞳を閉じた。 それから、どれだけの時間がたったのか。 「…い…ブラック・ジャック先生…」 肩を揺さぶられて、BJは瞳を開けた。 自分の方を掴み、意外と近い位置にあるスタントンの顔に、正直慄いた。 「着きましたよ」 目覚めたBJをみて、スタントンは告げた。 昨日のように、口元を一瞬だけ歪めて。 場所は、病院から程近いホテルであった。 最上階に近い場所に、男は部屋をとっていたらしい。 室内は広く、部屋の奥は一面ガラス張りで、階下を優雅に見下ろせた。 レストランまで行くのも億劫だろう、とスタントンはルームサービスをとった。 広い室内には、BJとスタントンだけがいた。 テーブルに処狭しと並べられた豪華な食事に、BJは静かに口をつける。 それを眺めながら、彼は言った。 「…ドクターは本当に良く似ていますね、影三に」 影三。 その親しげな呼び方に、BJの手が一瞬だけ止まる。 「…よく、言われましたよ」 顔をあげずに、BJは答えた。 自分ではよく分からないが、ノアール・プロジェクトのメンバーだった医師たちに、必ず言われた言葉だった。メンバーの一人だったドクター・ジョルジュに至っては、名乗る前に、言われたほど。 「影三は、優秀な技術者で、飛び切りの美人でもあったよ」 口元を歪めながら、男は言った。今度はその歪みを隠さない。 隠す気もないのか。 ぴくりと、BJは黒い眉をあげる。 普通、男が男を形容するのに『美人』という単語は使わない。 そして、その歪み。 「お父さんはねえ」ますます歪みを深め、スタントンは笑った。「影三は、本当に可愛い人だったよ。あのプロジェクトの中で、一番…私も好きだったんだよ」 「そうですか」 切り捨てるように、答える。 この男、何がいいたいのか。 「でも成就はしなかったな」 手馴れた手つきで、スタントンはワインをあけた。そして、その深紅の液体を、グラスに注ぐ。 「影三は全満徳のモノだったから。私は、一度もチャンスがなかったんだよ」 グラスを彼は差し出してきた。 そして、はっきりと浮かべる、その欲に満ちた醜い笑い。 「乾杯しよう、ドクター」彼は言った。「今日、君に出会えて、私は最高だ。最高に気分がいい」 情欲に濡れた彼の目をみて、この短い会話を繋ぎ合せ、天才外科医は一つの仮説にたどり着く。 いや、それは、そんなことが。まさか、そんなことは…。 ぴぴぴぴぴぴ。 場違いな機械音が、BJの懐から鳴った。 それは携帯電話から発せられたもの。 混乱した頭で、慌ててそれにでた。 「もしもし」 『お嬢ちゃんは預かったぜ』 それは聞き覚えのある、抑揚のない声だった。『ホテルの正面玄関。いますぐだ』 「なんだと!」 電話に怒鳴りつけると、コートを引っつかんで、BJはバタバタと部屋から出て行った。 残されたのは、スタントンひとり。 「…まあ、いいさ」 ワインを飲みながら、優雅に彼は呟いた。「まだ、時間はあるしな」 それに、切り札がまだある。 ずっと。ずっと。もしかしたら、30年以上恋焦がれていた男の息子を、手に入れられるか。 それも天才外科医と呼ばれる男を。 「キリコ、貴様!!」 「お、早いね」 ホテルのロビーでのんびり寛ぐ死神の胸倉を、BJは遠慮ナシに掴み挙げた。 「ピノコに何をした…事と次第によっちゃ、その足を義足に付け替えてやるぞ」 「さっきの電話は嘘だよ、口実、口実」 「なんだと!!」 「シェスター・スタントンに会っていたんだろ」 唐突に切り出され、BJはキョトンろする。「何故、知っている」 「さっき、偶然見かけた」 「嘘つけ」 「本当だって」 愉快そうに喋る死神は、自分の胸倉を掴む手をとって「じゃあ、行こう」と言った。 「どこに」 「俺のホテル」 「断る!」 「いいじゃない」と、死神。「俺の部屋、スィートなんだけど、すげえ湯船が広いの。 それもユニットバスじゃなくて、タイル。まるで、日本の温泉旅館の内湯みたいよ。夜景も見える」 「……。」 死神の言葉に、ぐらりと揺れた。 このニューヨークで、ユニットバスではない、広い風呂に入れるなんぞ、奇跡に近い。 「どうする」 「……行く」 子供のように拗ねた顔で、BJは答えた。 そんな彼の手を離し、じゃあ行こう。と死神は歩き出す。 その後ろを、BJは追いかけた。 考えてみたら、何故、この死神がそんなホテルに泊まっているのか。 浴室のドアを開けてBJは口もあんぐりと開けた。 そこは死神の言う通り、広い浴室であった。 六畳ほどのそこは、半分がたっぷりのお湯で満たされた湯船であり、奥の壁一面はガラス。 タイル張りの床の上には、なんと木製のスノコまで敷いてあり、明らかに、日本の温泉旅館を模した造りになっていた。 「…すごい…」 素直に感嘆の声をあげた。これは日本人ならば、泣いて喜ぶ豪華さだ。 「来て、よかっただろ?」 言いながら、死神はジャケットを脱ぎ、これまた広い洗面台の上に無造作に置く。 「…お前が先に入るのか?」 衣服を脱いでいく死神に、少し残念そうにBJは尋ねた。 「は?」死神は、呆れたように「一緒に入ればいいだろう、広いんだから」 「な…!」 不意打ちな科白に、BJは文字通り真っ赤になって「ふざけるな!!なんで俺がお前となんか!!」 「別に、ふざけちゃいないさ」 するりと、白くて長い指が、リボンタイに触れた。 シュッ…と布擦れの音と共に、青いそれが解かれる。 「一緒に入ろう、先生」 もう一度、死神が言った。 それは無機質で抑揚のない、いつもの死神の声。 でもその科白は、いつもよりも優しい。 その垣間見せる死神の優しさに、勝手に心臓が跳ねた。 馬鹿馬鹿しい、たかが言葉ではないか。 否定しなかったのを、OKの合図だと解釈したのか、死神はさっさと衣服を脱いで、 浴室へと入っていった。 しまった、一番風呂をとられてしまう。と、慌ててBJも衣服を脱いで、浴室へと飛び込んだ。 死神は、身体を流す事無く、湯船に浸かることもなく、ガラス窓から階下を見下ろしていた。 「お-、夜景が綺麗だ」 ちっとも綺麗じゃなさそうに言う。 それにしても、全裸で窓の前に立つなんて、どういう神経をしているのだ。 洗面器で身体にかけ湯をして、BJは湯船に浸かる。 心地よい湯加減だ。自然と笑顔が滲み出る。 ふと、大きな窓ガラスに映る自分に気づいた。 外は夜。 黒い鏡のように、鮮やかに映し出される室内は、まるでもう一つの世界のよう。 正直、父の記憶はほとんどない。 意図的に、故意に忘れたというのもあるが、それ以上に圧倒的だった現実が、 過去を思い出し、懐かしみ、浸らせてはくれなかった。 だけど、 20年以上経って再会した父は、まるで別人のようだったのに、 すぐに分かった。ああ、彼は、あの男は、父なのだ、と。 ノアール・プロジェクトの事を調査している際に、プロジェクトのメンバーだった医師たちに、 必ず言われた。 君は、お父さんによく似ている。 喜ぶべきなのだろうか。 憤るべきなのだろうか。 そんなに、似ていたのだろうか。 言われる本人には分からないのに、何より、父のことは全くといっていいほど知らないのに。 「…似てねえよ」 耳元で低い、抑揚のない、無機質な声で囁かれ、ぎくりとした。 いつの間にか、死神が自分の背後にきている。 黒い鏡にうつる、鮮やかな白い肢体。 それはまるで、石膏で象られた神々のような、美しさ。 「似てねえよ」もう一度、死神は言った。「だから、そんな顔するな」 「だ、れに、だ」 不様なほど、うろたえてしまった。 この男、超能力者かなんか、なのだろうか。 それ程に、死神の言葉は胸を蝕む黒い泥を、鮮やかに掬いあげた。 「さてね」 問いには答えずに、死神はゆっくりと継ぎ接ぎだらけの色のついた肌を、 背後から抱きしめた。 「お前はお前だ、ブラック・ジャック」 無機質なのに、甘やかに囁く、死神の声。「こんな扱いにくい男、他にもいたら困る」 「悪かったな」 毒づくが、その腕からは逃れない。 この男はドコまで知っている。ドコまで知っていて、俺にそんな言葉を吐くのだ。 黒い鏡にうつる、二人の男。 それに気づき、BJは硬直した。そして。慌てて振り返る。 「どうした」 変わらない、無表情。 いや、違う。 「…お前…」 信じられないものをみたかのように、その白い頬に触れた。 だって、その無表情の奥に見えるんだ。 俺には見えるんだ。 「お前こそ」BJは言った。「…なんて顔をしているんだ…」 それは信じられないほど、優しい眼差し。 柔らかで、美しい、まるで天使のような。 「え?どんな顔?」 さあ…と風が吹くように、その眼差しが消えうせ、目の前にいるのは、 いつもの死神。 白い指が頬をなぞり、そのまま顔が引き寄せられた。 「お前、亡霊に憑りつかれたみたい」 唇に吸い付かれる。頭を押さえつけられて、離れることができない。 侵入してきた舌先に絡めとられて、体が震えた。 亡霊に憑りつかれている? ああ、そうかもしれない。 その亡霊は、父?それとも天使? 次頁