「ちぇんちぇい!泰彦ちぇんちぇい!」 少女が私の名を呼んで、駆け寄ってくる。 私はしゃがみこんで、腕を開いた。 その腕の中に、少女は真っ直ぐに飛び込んできた。 「ちぇんちぇい」少女は、私を真っ直ぐに見上げる。「泰彦ちぇんちぇい、だいしゅき…」 その表情は、とても美しかった。 愛らしくも温かい、まるで私の総てを包み込んでくれるような、優しさが。 「…私も好きだよ…ピノコ…」 囁く言葉に、少女はうっとりと私に身体を預けてくる。 心地よい重みと、柔らかな感触。 「…愛してる…」 私は美しく囁き、愛の言葉と共に少女の唇を……。 「泰彦坊ちゃま。朝でございます」 唐突に耳に飛び込んできた、現実。 白拍子泰彦は、先ほどの夢を回想しながら、現実を忌々しげに噛み締める。 夢の中の少女は、今、この場にはいない。 何故なら、あの少女は、あの有名な悪徳無免許医の元にいるのだから。 ドクターホワイト愛の暴走物語 囚われの天使 「ちぇんちぇい!おきて!ちぇんちぇい!」 がんがんがん!フライパンをお玉で叩きながらの、素晴らしい大音響。 その大音響と共に、少女は天才外科医のベッドに向かって叫んでいた。 「ちぇんちぇい、おきてくだしゃい!!」 「…ピノコ…わかった…から…」 ふとんが大きく動き、天才外科医が顔を覗かせるのを見て、少女は調理器具を叩くのを止めた。 「おはよ、ちぇんちぇい!」 少女は眠り半ばの天才外科医の顔を覗き込んで「もう、お昼らよ。今日もいい天気らよ!」 「…そうか…」 大きく伸びをして、彼は起き上がり窓を見る。 確かに少女が言う通り、今日は良い天気なようだ。 「…あれ…」 パジャマのまま食卓まできた天才外科医は、テーブルに並べられた食事を見た。 「今日は、パンなのか」 「ごめんなちゃい。お米切らしちゃったよのさ」 「…そうか…」 「でも、お味噌汁は飲むでちょ?」 「ああ、頼む」 椅子に座り、テーブルに置かれた新聞を手に取った。 その間に少女は、天才外科医の目の前に、味噌汁椀とコーヒーカップ、目玉焼きをのせた皿を並べて、自分の前には温かいココアの入ったカップを置く。 「はい、どうちょ」 「…いただきます…」 パンを齧る天才外科医を見てから、少女はココアを一口啜った。「おいちい〜」 ちらりと時計をみると、もうすぐ午前中が終る時間だった。 恐らく、優秀な少女は朝食以外の家事を、すべて終らせたのだろう。 自分の食事に合わせて、目の前でココアを啜る少女。 少女は、彼が食卓についたとき、必ず自分も食卓につく。 すでに自分の分の食事が終っていても。 味噌汁を一口啜った。 「うまいな」 「そう?」 少女の表情が明るく花開く。「今日は、うまく出汁がとれたと思ってたの!」 微笑む少女につられて、天才外科医の口元にも微かに笑いが浮かんでいた。 ********* あの少女にマトモに話し掛けたのは、日本へ戻る5日ほど前だった。 フェニックス病も完治し、ようやく外出を許された少女は、それはそれは楽しそうに、花壇の花を見たり、花に群がる虫に、可愛い歓声をあげていた。 それは、あの幼い少女によく似合う光景。 だが、少女は見かけどおりの少女ではなかった。 『蓮花さん、あたしがちんで…蓮花さんがちぇんちぇいを許してくえゆなや…それで蓮花さんの気が済むのなやあたちを殺して。そして、お願い。ちぇんちぇいをゆゆちて…わすれてくだちゃい』 全満徳氏の娘に銃を突きつけられたとき、少女は毅然と言ってのけたのだ。 あの悪徳無免許医の為に。 深い、深い、まるで聖母のような親愛。 何故きみが、あんな男の為に…! あの少女の傍には、常にあの主治医顔した銀髪の死神の化身と呼ばれる殺人医師か、彼女を養護する悪徳無免許医師が目を光らせていた。 その姿はまるで、二匹の異形の怪物に捕らわれた、哀れな幼い天使を想像させられた。 あんなにも慈愛に満ちた、純粋な少女が、あの悪徳無免許医師の下で軟禁させられていると、いてもたってもいられなかったが、二人の黒い医者に睨まれると、恐ろしさのあまりに震え上がるのであった。 「白拍子先生!」 愛らしい鈴の転がるような声で名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がる。 振り向くと、あの少女が美しいあの笑顔を浮かべて、自分を見上げていた。 「あ、ぴ、ぴ、ピノコちゃん?」 声が上擦る。みっともないほどに、頬が紅潮しているのが分かった。 少女は「あのね、お礼が言いたくて」とその小さな手で、自分の手を掴む。そして、 「ちぇんちぇいを診てくれて、あいがと」 小さな柔らかい手だった。 その言葉に滲む、あの悪徳無免許医に対する親愛の情が、許せない。 あの男は、君が礼を言うような人間じゃない。 あの男は、人を人とも思わない悪徳医師なのだ。 あの男は君を養護するには、決してふさわしくない男なのに。 それなのに、君は、あの悪徳医師を微塵も疑うこともせず、敬愛する。 その小さな身体で、守ろうとさえする。 どうして、そこまで、あの男の事を。 「そえと」少女は少し言いずらそうに声のトーンを落して「ちぇんちぇいが、白拍子先生を殴ったのよね?ごめんなちゃい」 「君が謝ることじゃないよ、悪いのはブラックジャックだ」 そんなに済まなそうな顔を浮かべないでほしい。 堪らなく愛しくなる、天使のような存在だと思う。 そんな少女を、優しく抱きしめようと手を広げた瞬間 「ピノコ、もう行くぞ」 突然、横から少女の手を引っ張る存在。 「あ、ごめんね、白拍子先生!!」 引きずられるように連れて行かれる、天使。 哀れな、哀れな、純粋な天使。 きっと救い出してみせる。君をその悪魔の手から。 必ず、必ず、救い出してみせるから。 ********* 「はっくしょん!」 盛大な少女のくしゃみに、天才外科医は「風邪か?」と尋ねた。 「う--ん、冷えたのかなあ?」 「暖かい格好をしとけよ」 「うん」 言われて駆け出した少女は、ほどなくして、ピンクのカーディガンを羽織って戻ってきた。 そして、天才外科医が作業する横に座り、先ほどまで読んでいた雑誌を手にとった。 そんな少女を横目で見ていた彼は、それに気づいた。 「ピノコ」 「なあに?」 「そこ、穴があいている」 「え?」少女は指差された箇所をみて「やだあ〜」と悲惨な声をあげた。 たしかに、裾に近い部分に、小指大ほどの穴がひとつだけあった。 「もう!」 少女はカーディガンを脱ぐと、部屋の隅から、裁縫道具の入った大きなクッキーの缶を持ってきた。 ぱか。ふたを開けて、中から、りんごのかたちをした赤いフェルトを取り出した。 「…何をするつもりだ?」 不思議そうに尋ねる天才外科医に、少女は針の穴に糸を通しながら 「何って、穴をふちゃぐにきまってゆでちょ!」 フェルトを穴の上に当てて、少女は幼い指先で、拙い動作で縫い物をはじめる。 だが、その幼い指先では、縫い物など大変な作業だ。 四苦八苦している少女を見守っていた彼は、とうとう我慢ができなくなったのか、ひょいとそのカーディガンを取り上げた。 「わ!」 突然取り上げられたので、少女はぽかんと天才外科医を見上げる。 彼は器用な手つきで、あっと言う間にフェルトをカーディガンに縫い付けてしまった。 「ほら」 「わあ!ちぇんちぇい、さすが!縫合がうまいよのさ!」 「…縫合って言うなよ」 「あったかい〜」 嬉しそうに笑う少女を見て、天才外科医は立ち上がって腰を伸ばす。 「久しぶりに、洋服でも買いに行くか」 「え?」 少女の目がキラキラと輝いた。「いいの?」 「依頼もないしな」 「わあ!あいがとう!ちぇんちぇい!」 嬉しそうにその手に抱きつく少女は、天才外科医の手に頬擦りしながら 「ちぇんちぇい、大ちゅき!!」 「そりゃ、どうも」 素っ気無く答える彼の表情も、穏やかなものだった。 それは、この少女にしかみせることのない、優しげな眼差し。 (続く?) 次頁