辰巳の勤める児童施設は、水曜午後が手術日だった。
 手術を終え、辰巳は小さく溜め息を吐きながら、煙草の箱を手にとり屋上へとあがる。
 本当は施設内は全面禁煙であったが、こんな時ぐらいは許してもらおう。
紫煙を燻らせながら、辰巳は空を仰ぎ見た。
冬の空は半袖の術衣姿には肌寒かったが、青く澄んだ空が見える代償であるなら、それもいい。
「辰巳先生〜!!あ、煙草!」
総務の女の子が辰巳を指差して、叫ぶ。「ダメですよ!子ども達に見つかったら、うるさいですよ!」
「はは…それもそうだね」
携帯灰皿に煙草の吸殻を押し込めて、辰巳は笑う。
「で、外線?」
「あ!そうなんですよ!」
総務の女の子は、辰巳の手を引っ張り走り出す。
「え?なに?」
「外来師長が早く呼んできてって言ってました!」
「高山さんが?」
「辰巳先生に、T大の脳外のドクターが会いたいって…外来師長が対応しています」
「T大の脳外??」
 意外な言葉に、辰巳の脳内は疑問符でいっぱいになった。
 T大と言えば、国内の脳外科の権威で世界でも有名だった。
 勿論、辰巳の出身校ではない。
 あまりに接点のみつけられない名前に、辰巳はただ引っ張られたまま、応接室へと押し込まれた。
 応接室には、高価なスーツに身に纏った、神経質そうな男性がソファーに座っていた。
「…辰巳先生!」
年配の外来師長は、術衣姿の辰巳をみて、眉をしかめる。
しかし、いたしかたがない。だって、手術は今しがた終えたばかりだ。
「初めまして」
しかし、スーツの男性はそんなことも気にしない様子で、自信たっぷりの声で言った。
「辰巳先生ですね?私、T大脳外科医長を務める、白拍子と申します」
「…白拍子…失礼ですが、ドクター・ホワイトと呼ばれる…」
「ああ、ご存知とは、光栄です」
白拍子は、自信に溢れる笑顔で、答えた。
ドクター・ホワイト。
外科分野に身を置く医師として、その名を知らない者はいない。
医師会の秘蔵っ子。脳外科の最高技術者。技術の申し子。時代の寵児。
様様な称え方をされる彼が、一介の整形外科医になんの用があるというのだ。
「手術日には必ずおられるということで、お疲れのところ申し訳ありませんが、訪問させてもらいました」
礼儀正しくも、ところどころ自信に溢れる物言いをする男だな、と、辰巳はぼんやりと考える。
「さっそく、本題に入りますが」
これもまた高級そうな(実際、高級品だろう)鞄から、書類を取り出してテーブルの上にのせる。
それは児童票と呼ばれる書類だった。
その書類に記載されている名前を見て、辰巳の表情が曇る。
「…ご存知ですよね」白拍子は言った。「先生が未成年後見人となっている、要養護児童のものです」
それは正式な書類であった。正規ルートでしか入手はできないはずの。
これを手に入れるためには、児童相談所へ働きかけるしかない。
だが、何故。
「私が、問題視しているのは、この方」
答えぬ辰巳に微かに笑い、白拍子は養育者指名を指差した。
「この少女の養育者…所謂、里親となっている『間 黒男』氏の職業…自営業となっていますが、その内容は?」
「それは…個人情報となるのでお教えできません」辰巳は言った。「ですが、間氏は社会的責任と義務を果たしてきたという経歴はあります。特に問題はないかと」
「犯罪者でも、ですか」
静かに白拍子は言った。
それは、まるで、嵐の前の静けさのような。
「誤魔化しはやめましょう。辰巳先生、この間氏とは、あの悪名高い無免許医『ブラック・ジャック』ではないのですか」
それは勝ち誇ったかのような表情。
何故そんな表情をするのか、正直辰巳には分からない。
だが、白拍子はその表情のまま話を続ける。「辰巳先生、あなたは本当にあの悪徳医師に子供が養育できると、本気でお考えなのですか」
「あの子を養育できるのは、彼しかいませんよ」
「今の少女の状況が、どれだけ健全な発達を阻害しているか、分からない貴方ではないでしょう?」
「発達を阻害しているかどうかは、ここの定期的な発達検査で状況を把握しています。いまのところ、阻害も遅滞もみられません」
「数字にでない『弊害』が表面化した時、貴方はどう責任をとるのですか!」
ばん!白拍子はテーブルに手をつき、顔を近づける。「あの犯罪医師の環境が、本当に健全ですか?あんなにも性格的に欠陥のある男が、
貴方に隠れてどんな虐待を少女に加えているか、あなたはその可能性を考えたことはありますか!?」
「間はそんな男じゃない!」
気がつくと、辰巳は脳外科医の胸倉を掴み上げていた。
だが気がついても、その手を緩めずに睨みつける。「あんたがどう思っているかはしらないが、ピノコちゃんが信頼し、受け止められるのは間だけだ。
そんな信頼関係以外に、一体何が必要だというんだ!?」
「それでも、犯罪者は犯罪者だ」
胸倉を締め付ける手を突き放し、白拍子は大きく息を吐く。「ブラック・ジャックがあの少女を養護したいのなら、罪を認めて償うべきだ。
…残念です、辰巳先生なら分かっていただけるかと思ったのに」
白拍子は素早く身を整えると、書類を鞄にしまい、立ち上がる。
「私は、家庭裁判所に申し立てをするつもりです。そして、今一度、この少女の審査をしてもらう」
「…何故…です…」
「この子の幸せのためですよ」白拍子は言った。「そして、私が引き取りましょう。この少女を幸せにするために…失礼」
 口早に告げると、白拍子は応接室から出て行った。
 残されたのは、術衣をきたままの整形外科医。
「…なんなんだ…一体?」
 一体、あの男は何をしにきたのだろうか。

私が引き取りましょう。この少女を幸せにするために

そんな言葉を言った。本気なのだろうか。何故、あの男が、少女をひきとりたいと言い出したのか。
やはり真意が分からず、辰巳は呆然と応接室に座り込んだまま。




(続く?)