あの時、何故、手を離してしまったのか。 あれは、あれは、決して離してはいけなかったのに。 振り切って駆け出す彼を追いかけるべきだった。 教授に、行くなと止められたが、また必ず迎えに来ると叫んだが、 あれは、あの時に、彼の手を離すべきではなかったのだ。 あの時の後悔が、あの時の後悔が。 それはスラム街を歩いていた時だった。 非合法がまかり通る、危険地域。最下層に位置するであろうこの場所は、犯罪が まるで合法のようにまかり通っている。 そんな場所であるにも関わらず、まるで溶け込むように歩む医師がいた。 それは彼もまた、非合法の闇を歩く黒い医者であるからか。 足早に進む彼は一人だった。 今日のような危険な場所に出向くとき、彼は常に一人だ。 彼は、彼が最も信頼する小さな助手を、このような場所には決して連れてこない。 足手まといになる。 そう、彼はいつも助手に言い聞かせている。 だが本当は、本当の理由は。 「白蘭!」 男の大きな手が、BJの腕を掴んだ。 まるで殺気がなかったので気にはしていなかったが、無言で彼は振り向いた。 そして、僅かにだが、BJの紅い瞳が見開く。 腕を掴む男は、振り向いたBJを見て、動きが止まる。 「…失礼…」 男は慌てて腕から手を離した。「捜している人に、似ていたもので」 すまなそうに告げる男は、まだ若いような印象を受けた。 だがBJが驚いたのは、男の風貌。 窶れ果て、ぼさぼさの頭髪は、鮮やかな灰銀。 そして、自分を見つめてきた瞳は碧眼。 それは自分が知る彼の姿によく似ていた。 いや、よく似ていた…という言葉では語弊があるか。 しっかりとした骨格に、その前髪から覗く碧眼は、この男の人柄を表すかのように、柔らかで とても優しげだ。 髪の色と瞳の色、そして肌の色。それだけ。 この国ではさほど珍しい風貌ではない。 だが。 「人捜しですか」 思わずBJは彼に尋ねていた。 このまま無言で立ち去れば良い事だったのに。それなのに、何故か。 似ているわけではない。 恐らく彼を知る人間は、この男と彼を似ているとは思わない。 だけど、何かが、どこかが、彼と。 表面ではなくもっと深層の部分が、その僅かな部分がきっと彼と。 「はい」 彼は、疲れたような表情で口を開く。「…考えてみたら…白蘭はまだ少年だったのに… 本当に申し訳ありません…!」 語尾が震えていた。 彼は両手で顔を覆うと、壁に背を預けて、嗚咽する。 その姿はあまりに悲痛で。 その姿があまりに哀れで。 人を捜しているのだと言った。 もしも。 らしくなく、BJは微かに思う。 自分が居なくなったら、彼は自分をこんな風に捜したりするのだろうか。 そんな訳はない。 彼は、私がいなかったら、あっさりと忘れるだろう。 そして、何もなかったかのように、平然と、日常に。 何かを求める彼ではない。 誰かを求める彼ではない。 この男は彼ではない。 それなのに、自分に似ているという捜し人を思い、嗚咽する姿から離れられなかった。 分からない。何故だか分からないけど、何故かその姿が、死神に重なるようで。 もし彼が泣くことがあるとしたら、きっと、こんな風貌。 路地裏で、誰に見られることなく、一人で嗚咽するのではないか。 彼が感情を発露することが、あるのならば。 スラム街でも比較的明るい店に、二人は入った。 男は恐縮していたが、BJは無理やりこの店に入り、安い酒と食事を奢ってやる。 何も喉を通らないと言いながらも、悪いと思ったのか、男はもそもそと食事を摂りはじめた。 やつれた表情は無精髭に覆われ、着ている衣服も大分草臥れていた。 そうとう必死で捜しているのだろう。 「その少年は、この街に?」 呟くように、BJは尋ねた。 言葉に、男の手が一瞬強張る。 「…ええ…」欠けたグラスを煽り、男は「白蘭は……男娼でした。だけど、あの子はとても 聡明で…ちゃんとした教育さえ受ければ、あの子は……」 言葉を切り、男はくしゃりと前髪を掻き揚げた。 震える指で、その灰銀の髪を。 「私のことを、天使のようだと言ってくれました」 男は言った。きつく目を閉じながら「この髪が、天使のようで綺麗だ、と。 こんな…ただの、ただの男の髪を…!」 震える指を、ただ静かにBJは見つめていた。 「…もう、死んだのだと言われました…!」 搾り出す言葉。それは、ひやりと身を切り裂くような。 「半月前に…白蘭は死んだのだと」 「何故」 冷静に、静かにBJは尋ねる。だが握る手は汗に濡れて。「死因は」 「詳しくは…聞いていません」男は掠れた声で呟く。「でも、信じられなくて…とても、とても 信じることができなくて…!」 震える男は、今にも消え入りそうなぐらいに、弱弱しかった。 そのまま消えるこえおができたら、もしかしたら本望か。 死んだことが信じられず、受け入れられずに、この男はその少年を捜し続けているのか。 見つかるはずのない、少年を。 それでも、哀れにみえる男を、見捨てることはできなかった。 少年の死を受け入れられない男を、見捨てることは。 男に連れられて、BJは裏路地の奥にあるバーに入った。 年若いバーテンが、小さな声で「いらっしゃいませ」と告げる。 二人でカウンターに座ると、BJは「ジン・トニック」と注文した。 グラスを置くバーテンの手に、BJは数枚の紙幣を握らせた。 「白蘭という少年について聞きたい」 ギョッとするバーテンは、少年の名を聞いて、泣き出しそうに顔を歪めた。 「…白蘭…ですか」 声を潜めて、バーテンは「何が、聞きたいんですか」 「彼の死因」 端的に告げる言葉に、バーテンはキュッと口元を引いた。 そして、呟くように口を開く。「…半月前ですよ…すぐそこの安宿の屋上から…」 男の息を呑む音が聞こえる。 残酷なことをしているな。BJは微かに思った。 「身投げか」 「…それが…」バーテンは、ほんの少し言葉を切り「あの日、白蘭はテッドっていう、このへんの チンピラといたんです。…ですがテッドは、白蘭は死神の化身とか言う殺し屋に連れて行かれた って……それで」 「死神の化身!?」 ガタン!椅子を鳴らして立ち上がった。 ぎらりと睨みつける紅い眼光に、若いバーテンは「ひ!」と悲鳴を漏らす。「は、はい! 死神の化身に連れて行かれて…突き落とされたあとに、毒を飲まされて死んだ…て噂です」 「確かなのか」 「う、噂ですから」 ぶるぶると震えながら、バーテンは必死で顔を縦に振っていた。 気の毒なほど震えるバーテンに「わかった、ありがとう」と告げ、BJは男の方に向き直る。 「済みません、電話してきます」 早口に告げると、BJは店の外へ出た。 一人残された男は、小さく呟く。 「やっぱり…白蘭は死んだのか…」 それは、絶望しか含まない、音。 次頁