観光客で賑わう異国の路地裏は、美しく整備された表向きの掃き溜めであるかの如くに、薄汚く、腐臭すら漂っているような気がする。 ぎらぎらと、音を立てて照りつけるかのような、太陽の直射日光を存分に浴びる地面は、横たわるにはちょっとした拷問のように、熱く、熱く、肉を焦がしてしまいそう。 乾いた空気が、母国である日本とは違う臭いで、自分とは相容れない。 それでも、母国を飛び出してからの一年間、よくぞ生きてこられたな、と自分でも感心していた。 このまま、地面に這い蹲っていれば、何れ死ぬ。 そうは分かっていても、体に力が入らない。 果たして、腹からの出血多量で死ぬのか、それとも熱射病で死ぬのか、死因は何になるのだろう。 どっちにしても、マヌケな死に様だ。 こんなつまらない事で死ぬほど、自分はちっぽけだったのか。 他人事のように、霞みかかる意識で考えていた時だった。 ふと、殺人的な直射日光が和らいだ。 顔に影がかかったのは、誰かが自分を覗き込んでいるからだと、頭の片隅が判断していた。 物乞いか、追いはぎか。 いよいよ死ぬな。そう思ったら、妙に可笑しくなって、笑いが零れた。 「余裕だな」 影から降ってきた言葉に、耳を疑った。 まさか。この異国の地で落ちてきたのは、母国言語。 「随分、若いくせに。粋がった小僧か」 最期に聞くのが、まさか日本語だとは、驚きだ。 「だが、使えそうだな」 その言葉を最後に、意識は落ちるように闇に紛れた。 禁ずべき邂逅 眼が覚めると、ベッドの中に横たわっていた。 まさか、今までのは夢だったのだろうか。 そう錯覚しそうになったが、体に巻かれた白い包帯が、あれは現実だと告げている。 なら、ここは? 重い体を引きずるように、半身だけ起こして部屋を見回した。 白い壁に、高級そうな調度品、清潔な布団、そして、染み一つないソファーセット。 塵一つおちていない床は、そこそこレベルの高いビジネスホテルのようだった。 かちゃりと、音がして右側のドアが開いた。 ダークスーツを着た長身の男が、ドアを開けて抑えている。 体格のいい金髪の白人男性だ。厳しい顔つきから、とても堅気には見えない。 「ミスター、目覚めたようです」 「そうか」 男は、ドアの内部へ向かって話しかけていた。 答えたのは、やはり男の声。もう一人いるのか、と思った。 つまり、あの男は執事か、いや、ボディーガードか何かだろう。 そして、今、ドアの中にいるのが、この男の雇い主。 恐らくそいつも堅気ではない。 僅かに緊張しながら、布団の中で拳を握り締めた。何が起きても、冷静でいられるように。 「意外にタフだな、安心したよ」 だが。 「君は、日本人だろう?失礼だけど、パスポートを見せてもらった」 想像していたのは、年配の白人。 「間久部録郎クンだね。僕は、間って言います」 彼は営業スマイルのような、爽やかな笑顔で握手を求めてきた。 想像していたのは、年配のヤクザな白人。 だが、今、目の前にいるのは、白のカッターシャツにダークスーツのパンツをはいた、日本人男性。 ありふれたサラリーマンだった。 いや、ありふれた、というのは、語弊がある。 「あなたが、僕を助けてくれたのですか?」 例えば、その眼。 「ああ。道端に血を流して倒れていたから、驚いたよ」 大げさに笑って言うが、その眼はまるで冷酷な監視者のよう。 「実は、観光中に強盗に襲われまして、九死に一生を得ました」 何より。 「同じ日本人だ。助け合っていかないとね」 似ていると、思う。 「間さんは、お仕事でこちらに?」 間久部は笑みを崩さずに尋ねていた。こちらの手の内をさらしたら、恐らく食い破られる。 そんな危機感を、何故か本能で感じ取っていた。 「いや、こっちに住み着いているんだ。日本にも、もう随分帰っていない」 「では…ご家族は?」 「妻とはこっちで出会ってね。娘が一人いるよ…」 笑みを崩さずに間の表情が鮮やかに変わった。 それは、まるでマスクを剥ぎ取って本性を剥き出しにしたような、例えるなら悪魔のような笑み。 音も立てず、彼は手を間久部に伸ばしてきた。 その手に囚われたら最後、命を食い破られる。そう思うのに、体は麻痺したかのように動かない。 冷たい汗が、頬を伝う感覚だけが、嫌にリアルだった。 「あと、息子がいるよ」間は言った。「日本にね。五体がバラバラになったらしいから、生きているかも知らないが」 「それは…まさか…」 「ミスター」 手が間久部に触れる寸前に、白人の男が無粋に割って言葉を挟む。「もう5分で2時です」 「ああ、そうだったな」 間は手を引いて、深々とソファーに座った。 いつの間に詰めていたのか、間久部は息を細く吐き出していた。 心臓が、早鐘を打って、息が苦しい。 「間久部、お前に一旗あげるチャンスをやろう」 くつくつと笑うと、実に愉快そうに間は告げたのだった。 2時きっかりにノックされたドアを、間は開ける。 そこには、豊かな体格に口元には立派な髭を蓄えた白人男性が立っていた。 「お待ちしておりました、ミスタージョーンズ」 一礼して、間はジョーンズを見上げていた。 先程とは別人なのではと疑うほど、間はオドオドと自信なさげな、不安そうな表情だった。 そんな間を見て、ジョーンズはニヤリと笑ってみせた。 「今日は、私を説得できるのかな?」 「ど、努力いたします」 眼を伏せて答える間の顎をジョーンズは掴み、顔をあげさせる。 不安に揺れる鳶色の眼を見、殊更、満足気な表情でジョーンズは「期待してるよ、ジャップ」 「は、い」 震える唇で、間は答えていた。 ジョーンズは白人至上主義であり、そして嗜虐的趣向を好む男だった。 彼のその性的嗜好は、世間的に無名ではない立場であるが故に、知られてはいない。 だが、それでも、普段…特にビジネスシーンでは絶対にのぞかせてはいけないそのサディズムが、間の前では抑えられないほどの欲求として噴出してしまった。 何故なら、彼は、ジョーンズが理想とするマゾヒストの素質を持っていたからだ。 初めて彼に出会ったのは、会社の会議室。 ただの、数ある商談相手のウチの一つだった。 やり手であるとは聞いていたが、彼は、よくある日本人のような張り付いた営業スマイルの下に、まるで小動物のような、怯える顔を持っていた。 その怯える顔を見たいと思ったのが、そもそもの始まりだった。 商談に無理難題をふっかけて、契約を潰すそぶりをみせると、彼はみるみるうちに、その営業スマイルを崩し、困惑と怯えの綯い交ぜになった、実に素晴らしい顔をしてみせたのだ。 「お願いです…お願いします!」 彼は震えながら、床に這い蹲って頭を下げた。 そして縋る彼の手を脚で払いのけた時、ジョーンズの紳士の仮面が粉々に砕け散ったのだ。 そう、今のように。 「君次第だ…総ては、な」 「は、い…ミスター…!」 間は震える手で、自分のズボンから革ベルトを抜くと、ジョーンズに差し出した。 それを受け取るのをみてから、間は、スーツのジャケットとネクタイ、カッターシャツを自ら脱ぐ。 「それだけか?」 ジョーンズの言葉に、間はびくりと肩を震わせると、震える手でスーツのズボンと下着を脱いだ。 そして、両手を頭の後ろで組み、膝立ちになる。 完全に服従するポーズだった。 ジョーンズは慣れた手つきで、革ベルトを振るった。 「ッあ!」 甲高く鋭い音と共に、間の皮膚は赤く色づく。 連続して、休む暇もなく、ジョーンズは欲望の赴くままに、間の体をぶち続けた。 震える声は涙が混じり、哀れさをさそうが、その声がますますジョーンズの興奮剤となる。 瞬く間に、間の体は赤く腫れ上がり、全身を汗で濡らしていた。 ジョーンズの手が止まる。 はあはあ、と二人の息は荒く、肩を上下させていた。 「勃ったのか、変態め」ジョーンズは薄く笑って「君はどうしようもない、雌犬だな」 「ああ…ちが…!」 「ドコが違う!」 「アんッ!」 ベルトが尻を打ち、間は女のような喘ぎ声をあげる。 ジョーンズは間の前に立った。 「舐めろ」 一方的な命令。 それに従い、間は両手を下ろし、ジョーンズのズボンのファスナーを下ろした。 そして、完全に勃起する彼の性器を、戸惑いなく、口に含み慰めだした。 ジョーンズがこの部屋を出て行ってから、隣室から金髪の白人男が出てきた。 そして、バスローブを手にすると、ベッドに全裸で横たわる間の上にかけてやる。 「2億の契約書一枚に、2時間」間はバスローブを羽織ながら、起き上がる。「まあ、悪い仕事じゃない」 「手当てを」 「ああ」 心配そうな色を称えて手を伸ばす白人男の頭を、間は抱き寄せた。 そして、軽く、唇を押し付けてくる。 男は突然のことに、うろたえた。 唇を離した間は、まるで夢見ているかのように、柔らかで穏やかな表情だった。 が。 「オズ」次の瞬間には、鳶色の眼は冷淡な光を湛える。「お前も騙され易いな」 「…申し訳ありません」 微かに頬を赤らめて、男…オズワルドは間のバスローブを肌蹴させると、傷の手当をはじめる。 続いて、部屋から出てきた間久部を見て、間は愉快そうに口元を歪めた。 「さっきの男だ」間は言った。「ラルフ・ジョーンズ。例の4原色ディスプレイ開発に成功した電気屋の、海外流通部門の部長さ」 「殺すのか」 「そんな物騒な事は、しない」 くつくつと、喉をならして笑いながら、間は告げる。「…あいつの眼を抉り取って来い。俺を値踏みする、薄汚い碧眼を、な」 「…殺すよりも、面倒じゃないか」 「殺すより、効果的さ」 言い切る間の表情は、まるで鋭利な刃物のような、危険じみた微笑を浮かべていた。 あれは、総て演技だったのかと思えば、薄ら寒くなる。 恐らく彼は、ジョーンズの性的嗜好を総て調べ上げた上で、彼の望むマゾヒストの演技をしていたのだろう。 目的の為なら、彼は手段を選ぶことはない。 恐らく、敵に回さないほうが、懸命だ。 …だが。 彼の名を聞いてから、燻る事実が、間久部の中にあった。 あの男。年格好から言って、恐らく日本にいる彼の父親ではないか。 他人の空似にしては、似すぎている、あの容姿。 もしそうだとしたら。 自然と、間久部の口元に笑みが浮かぶ。 クロちゃんは、相当、悪い医者になるのだろうな。 そう、きっと、あの父親のように。 次頁