濁る意識は吐き気がする程、不快な匂い。
 これは死臭ににている。
 これは腐乱している肉の匂い。
 肉から滴る腐水は、どれだけ搾り出しても尽きることはない。
 この世で一番醜くて、最も穢れたこの意識が止まることはないのか。
 ならば、懲罰を。
 この世で最も深い罪を犯した者をに与えられる、罰を。
 それとも、これが罰なのか。
 求める懲罰を与えられない、この苦しみこそが。
 ああ、それならば。
 ああ、それでも。


 それは非合法なプレゼンテーションだが、実質は最高技術を披露する場とも言える。
アンダーグラウンドだからこそ、その技術は常識では考えられない、いや、マトモな
医療関係者なら、手をだすことは倫理上許されることではない、研究成果。
だが、その非合法であり、非人道的な研究成果は、いつの時代でもその世界の大きな飛躍
に繋がる。
それを、犯罪だと、自覚しなければ。

「どうした、間くん」
その顔色の悪さに、シュタインは思わず尋ねる。
彼の顔色は青を通り越して、白かった。唇もいつもの血の通う色ではなく、紫よりもまだ悪い。
「いえ、大丈夫です」
小さく掠れた声で、彼は答えた。
このプレゼンテーションの発表者はシュタインであったが、この一連の研究は影三の手によるもの
だった。だが、彼の名前は表立ってでることはない。彼は完全にこの組織の従属物であり、
そして支配され、閉じられた存在だった。
しかし、数少ない研究医は彼の存在を認知している。
捕らわれた天才。そう、影三は呼ばれていた。
「申し訳ありません、ドクター・シュタイン」
小さく、彼は頭を下げた。

 この世で最も深い罪を犯した者をに与えられる、罰を。

 不意に蘇る、恐ろしい事実。
 体が微かに震える。その事実が毒となり、血管の隅々まで腐らせているような。
 罰を求めるなんて、自己満足だ。偽善だ。
 その事で罪が消えるとしたら、間違いだ。
 罰を受けたところで、失ったものが戻るわけがない。
 罪は刻み込まれて、消えるわけではない。
「辛そうだな、影三」
 組織の人間の中で、最も存在感がり、最も権限を持つ男が、ボディガードと共に現れる。
 統括者、全満徳だった。
 虚ろな目で、影三はその存在を見た。
 そして、その存在に告げられた、事実を。
「足りないのか、しょうがない奴だ」
その力ない腕をとり、満徳は強引に引き寄せた。
まるで縋るような眼差し。
見たことのないその瞳の色に、シュタインは驚いた。
何故、どうして、君がそんな目をするなんて。
全満徳は実に愉快そうに、満足そうに笑った。
そして「影三は、2番の会議室にいるよ」と言う。「最も、呼ばれても、人前にでられるかは
わからないがね」
「…まだ、プレゼンの最中です」
シュタインは驚きを隠せない。「せめて、総てが終ってからにしては…」
「それだと、影三が待てない」満徳は笑った。「そうだろう?」
「…はい…」
生気のない声で彼は答えた。まるで、操られたかのように。
 連れて行かれる彼らの背中を、シュタインは呆然と見詰める。
 何があったのか。
 彼はこんな形で投げ出す人間ではない。
 何故、彼をここまで貶める必要があるのか。
「ドクター!時間です!」
秘書に呼ばれ、シュタインはプレゼン会場へとむかった。
冷や汗が、全身から噴出した。
もしかしたら、彼はもう、後戻りはできないのだろうか。
二度と戻ることのできない所まで、追い込まれてしまったのだろうか。




 予定通りにプレゼンテーションは終了した。
 その間、影三は最後まで姿を見せなかった。
 嫌、恐ろしくて呼ぶことができなかった。
 恐ろしくて、君を直視することができなかったのだ。
 用意されていた控え室を出て、シュタインは自動販売機のコーナーへと向かう。
普段、彼は自動販売機の飲み物は好まない。
オイル臭い合成された飲み物を、わざわざ飲む神経が分からなかった。
どうせ飲み物を飲むのなら、味わう時間を充分にとり、美味しくのむべきだと思う。
だが、今日は、今日だけはそんな気分にはなれない。
 自動販売機のコーナーで談笑しているグループがいた。
よく知った顔ぶれだった。かつての研究仲間が数人いた。
美しくも高尚な志を抱いて、共に、ただ研究をしていた、懐かしくも、戻らない。
 皆、自分に挨拶を返してくれるのが嬉しかった。
 彼らは、プロジェクト凍結後、全満徳の元から離れていった研究医たちだ。
 大学に戻った者。会社の研究室に就職した者。
 そして、
「…ドクター・ジョルジュ…!」
その男のを見つけ、シュタインは思わず声をかけた。
 そして、組織を離れたが、何故か組織とは切れる事無く、外部で一人研究を続ける者。
「ドクター・シュタイン、お久しぶりです」
にこやかな笑顔で、握手を求める手を、握り返す。
実に1年ぶりであった。この男に会うのは。
「もう、大丈夫なのかい?」と、シュタイン。
「ええ」ジョルジュは答えた。「大分、落ち着きました。…ところで、ドクター・シュタイン…」
一度言葉を切り、そして慎重に口を開く。「間くんの姿が見えないのですが、彼は元気ですか」
「……。」
言葉に詰まる。先程の彼の表情を、顔色を思い出して。
そして、自分が彼にしてきた行為を思い出して。
 シュタインの言葉を、ジョルジュは静かに待っていた。
 それは、研究仲間を気遣う瞳じゃない。
 本気で彼の安否を心配している、強い眼差し。
 その眼差しの意味を、シュタインは知っていた。
 知っていたからこそ。
「…寝込んでいる…とかではないのですよね」
「…ああ、そうだ」
妥協したかのような言葉に、シュタインは答える。
そうですか。とジョルジュは微かに笑い、そして「できましたら」と、
小さなスーパーの袋を差し出した。「入浴剤です。間くんは風呂好きですから」
「ドクター・ジョルジュ」
差し出された袋を押しやった。そして内ポケットからカードを取り出し、素早くジョルジュの
スーツのポケットにそれを滑らせる。
「24A765」小声で素早くシュタインは告げた。「今夜の20時には、全満徳は、ここを発つ筈だ。
明日は間くんは体調不良で休む手はずになっている。そういうことになっている筈だ」
「ドクター・シュタイン?」
「私が出来るのは、ここまでだ」
顔をあげ、シュタインはジョルジュに視線をあわせた。
それはまるで罪を犯した罪人のような、痛々しい表情。
「私は、間くんに酷いことを…こんなにも弱い私を彼は許してはくれないだろう」
懺悔のように、シュタインは呟いた。「だから…ドクター・ジョルジュ…君なら、間くんを…
彼を、頼む…お願いだ」
「…分かりました…ありがとうございます」
 一礼して、ジョルジュは自分の鞄を掴むと、足早に建物の奥へと急いだ。
 研究棟から、居住棟へ。一番端にある影三の部屋にたどり着く。
 ドアの横に新しく取り付けられたのか、暗証番号を入力するためのパネルが設置されていた。
個人の居室にしては、厳重すぎる。
一体、なんのために、だ。
 先程、シュタインから教えられたキーを入力し、カードをスライドさせた。
 微かな電子音と共に、ドアが開く。
 暗い室内には、誰もいなかった。
 荷物を壁際に置き、ジョルジュはスーパーの袋から、固形タイプの入浴剤をとりだした。
 その袋の裏に、マジックで小さく書いた、彼へのメッセージ。

『You are necessary for me through all eternity. 』

これを見て、彼がどう思うかは分からない。
だが、伝えておきたかったのだ。
今日このチャンスを逃せば、彼に会えるのは何年後か…もしかしたら、もう二度と会えないかも
しれない。だから、逃したくはなかったのだ。
今日という日を。
 この組織の研究施設を訪れたのは、一年ぶりだった。
しかし、影三には数年…4年近く会ってはいない。
書面での遣り取りは何度かあった。だがそれは、研究論文の交換等だ。
検閲されているので、個人的な遣り取りは一切ない。
ただ、噂でしか、彼の事を知ることはなかった。
いや…一度だけ、個人的な遣り取りはあったか。
一年前。
ジョルジュの妻が病死した時に、影三からカードが送られてきた。
久しぶりにみた、彼の手書きのアルファベッド。
この送られてきたカードを見て、きっと妻も安心して、喜んだだろう。
彼女も、影三のことを心配していたから。
 もう一年が経つ。
病理学のエキスパートであり、ノアール・プロジェクトにジョルジュの助手として参加していた。
気丈で、明るくて、はっきりと物を言う女性だった。
影三を弟のように可愛がり…そう、最初は彼女も影三のことが好きなのだと誤解していた。
そのことを何気なく言うと、彼女はキョトンとして、そして
『何を言っているんですか。私が好きな人は他にちゃんといますよ』
それが自分であることを、彼女は、それはそれは鮮やかに隠してみせたのだ。
細やかな気配りと、繊細な心。
そう、彼女は心の優しい女性だった。
息子は彼女の優しい心を、娘は彼女の繊細な気配りを、受け継いでくれた。
 もう、彼女が亡くなって一年が経ったのだ。
『影三くんと、私、どっちが好き?』
よく彼女はそう聞いてきた。どちらも選べないと答えると、
彼女は笑って『正直者』と言うのだ。『そういう時は、"影三も愛しているが、今は傍に居る君が一番だ"って答えればいいのよ』
そう笑って言うのだ。
気丈な女性だった。そして、心の優しい女性だった。
何故、優しい人間は、いつだって先に逝くのか。
 不意にドアから電子音が聞こえ、ゆっくりと開いた。
 暗い室内に差し込む、明かり。
 その明かりを纏って室内に倒れるそうになりながら、彼が入ってきた。
 ばたん。
 ドアが閉まり、また電子音が鳴る。
 また、閉ざされる室内。
 彼の頭部が不自然に揺れた。
「影三!」
膝から崩れ落ちる彼を抱きとめ、肘の内側で頭を庇いながら、ゆっくりと横たわらせた。
腕の中で、彼の体が硬直し、怯えたように見上げている。
「…私が分かるか、影三」
囁くように、彼へと問う。
その声を聞き、影三は耳を疑った。
まさか、何故、どうして。
「………エド……?」
戸惑っているような、声。
それでも4年ぶりの彼の肉声。
「そうだ、私だ、エドワードだ」
力強く答える声。4年ぶりのその肉声に、心臓が締め付けられる。
「ど、うし…て」
掠れるて震える声。
「影三、会いたかった」
そして彼を抱きしめた。
逃がすまいと、強く、強く、戒めるように。




次頁